読書日記でビジネス書系が多かったので、先週と今週は有名な小説のドフトエフスキー「罪と罰」(岩波文庫)を読みました。
この小説はその奥の深さゆえに、1回でその内容をすべて味わうのは難しいと感じています。
背表紙では世界文学に新しいページをひらいた傑作とまで紹介されています!
そのため、今回は気になるフレーズをピックアップして、今後の振り返りや次回の読書までの勉強用のメモとして残しておこうと思います。
本書はその知名度ゆえに既に読まれている方も多いですし、読んだことが無い方でもタイトルは知っているという方がほとんどであると思います。
まだ読んでいない方は気になるフレーズやシーンと出会い本書を手に取るきっかけに、過去読んでいる方はなつかしさとともに内容を振り返るきっかけに出来ればと思います。
背景知識としては当時のロシアの状況(社会主義)や、キリスト教(ロシア正教会)の知識があるとより内容を深く味わえるのかなと思います。
今回は上巻の内容です!
あらすじ
岩波文庫あらすじ
その年、ベテルブルグの夏は長く暑かった。大学もやめ、ぎりぎりの貧乏暮らしの青年に郷里の家族の期待と犠牲が重くのしかかる。この悲惨な境遇から脱出しようと、彼はある「計画」を決行するが・・・。
登場人物:今回の記事に関係する人と情報に限定(岩波文庫より引用)
- ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ:前編の主人公。貧しい大学中学生。
- プリヘーリア・アレクサンドロヴナ:ラスコーリニコフの母
- アヴドーチヤ・ロマーノヴナ:ラスコーリニコフの妹。 ドゥーニャは愛称
- セミョーン・ザハールイチ・マルメラードフ:ラスコーリニコフが酒場で出会う退官官吏
- ドミートリイ・プロコーフィチ・ラズミーヒン:ラスコーリニコフの大学の友人
- ピュートル・ペトローヴィチ・ルージン:ドゥーニャ(主人公の妹)に求婚する弁護士
気になったフレーズ
第1部:物語のはじまりから「計画」の夜まで
p62 マルメラードを家に送り届けた帰り
もし人間が、一般に人間が、つまり全人類が本当は卑劣じゃないとしたら、あとのことはいっさいが偏見で、見かけだけの恐怖で、なんの障壁もないってことになる。そうなる道理じゃないか!- 主人公
罪と罰 上巻
主酒場で出会った退官官吏のマルメラードフを家に送り届けた先でその家と家族の状況を見た主人公は、所持金のすべてをそこに置いてきてしまいます。
自分も質屋頼みの生活をしているお金に困る身で悪魔のような計画を練る一方で、自分のなけなしのお金を無言で初対面の家族のために置いてきてしまうという、合理性も一貫性もなさそうなこの行動。
このセリフはその自身の行動について、自分に言い訳するようなセリフの〆に出てくるので印象的でした。
「卑劣じゃないとしたら」と問いかけをするということは、ここまで主人公は人間の本質は卑劣(性悪説)なものと考えていたととらえています。
その後の偏見、恐怖、障壁という部分は更に難解・・・。
その後の主人公の自分の行動の正当化のシーンをを考慮すると、何が悪で何が罪かという常識的な考えでしょうか。
一般的に悪とされ、犯すのは罪と恐れられている行為に対する常識という障壁は、ただの偏見であるという思考と解釈すると、その後の主人公が英雄と罪を含めた問答をするシーンとつながる気がします。
キリスト教、特に当時のロシアにおける罪の定義や立ち位置についての知識があれば、この部分の理解はより深まると思うので今後調べていこうと思います。
夢の光景
ここはセリフというよりはシーンですね。主人公は計画前日に野外で眠った時に少年時代の夢を見ます。
その内容は老いた牝馬に酔った群衆がひどい仕打ちをするシーンを目の当たりにし、少年時代の主人公がそれを止めようとしますが、止めることはできず悲劇的な結末を目の当たりにします。
夢から覚めたのち、主人公は計画の遂行を一時は辞めることを決意することから、これは主人公の中の善性(少年)と悪性(群衆)の計画の是非をめぐる葛藤が夢となって表れたものと解釈しています。
老いた牝馬というのもポイントでしょうか。そのほかの登場人物や舞台を深堀するとより興味深いかもしれません。
一度は計画の断念を決めた主人公ですが、その後ある偶然的なきっかけで決行を再決意することとなります。
致命的な決定をする前に、止めるチャンスはいくつもある。しかし、それは少しの歯車のかみ合わせにより進む方向に傾いてしまうという、 運命に対する人間の意思、もしくは人間自身のはかなさを感じました。
第2部:計画後の起床から退官官吏の事件への遭遇を経て母と妹との再会まで
p302 ルージンとの初の会合
実際的精神なんて容易にえられるものじゃない、天から降ってくるわけじゃない。ところがぼくらは、かれこれ、二百年もいっさいの実際行動から遠ざかってきたんだからな・・・(中略)・・・だが、実際的精神だけはやっぱりないんだな。実際的精神てやつはやすやすとは手に入らないものでしてね- 主人公
罪と罰 上巻
ルージンが若い世代を観察することで実際的な精神を感じると発言した後の主人公の返しです。
実際的な精神とは、ルージンが明確な見解、批判的な精神と並列で触れていることから、慣例にとらわれない本質的な考えを指していると考えています。
主人公の発言は言動の一致と実際の行動と検証が重要であるという指摘でしょうか。
構図的に伝統や年長を重視しそうなルージンによる若者の考えを尊重した発言に対し、若者でかつ思想家の主人公が否定をするという構図が興味深かったです。
ルージンが伝統的な出自ではなく、自分の代で成り上がったことによる影響もあるかもしれませんが。
また、一方でルージンの人に対する自信過剰な態度から、自分と異なる新しい考えを取り入れるほどの器の大きさがあるかは本当に疑問であり、口先だけのセリフであることを見抜いた発言である可能性もありますね。
p304 ルージンとの初の会合
ところが科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ。なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり、だからです。おのれひとりを愛していれば、自分の仕事もうまくいくし、上着も無事に残ることになる。経済学の真理はさらにこう付け加えます。安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会はより強固な基礎を持つつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。- ルージン
罪と罰 上巻
このセリフは丁度ヨーロッパで資本主義が確立してきた時代背景が反映されていると考えられますね。
この考えの先は利己主義や帝国主義でしょうか。
個人的には人が人に優しくできるのは心に余裕があるときであると思います。
そのため、まず自分の最低限の繁栄を確保しなければならないという意味では、この考えは的を得ていると考えます。
ただ2つの注意点があり、1つ目はこの余裕はお金のみに起因するものでなく、その人の信念や価値観、社会とのかかわり方も大きく関係するという点です。
そして、2つ目は人の欲望は果てしなく上限を設けることが難しいという点です。
富の再分配と格差は資本主義が始まってから現代まで続く、人の本能と根深く絡む課題ですね。
このルージンの発言を盲信して追従すると、人は自分の富のみを追求する利己的な暴走車となり、いつか越えてはいけないラインを越えてしまうでしょう。このラインも時代や背景で変わるというのも問題を複雑にします。
主人公はこの発言の内容に直接否定や批判を挟みませんでしたが、人々の格差が所々に見られる舞台の中でこのセリフを入れることで、この深刻な課題を暗に指摘していると感じ印象に残りました。
p324 計画実行後の街中放浪中
それでも、今死んでしまうよりは、そうやって生きたほうがいい、というんだった。なんとか生きていたい、生きて、生きていたい!(中略)ああ、なんという真実の声だろう!人間は卑劣な存在だ!だが、だからといって、人間を卑劣と呼ぶやつも、やはり卑劣なんだ!- 主人公
罪と罰 上巻
主人公は計画の遂行現場に戻ったり、自分を警察に連れていくことを提案したりする奇妙な行動をとります。
自首をほのめかす言動もいたるところに見られることから、警察に捕まり決着をつけたいという思いがあり、しかし、それを自分で遂行することができないので、ほかのだれかにその運命を委ねたいという願望から生まれた行動であると推測します。
上記のセリフはその行動の間で出てくるもので、自首した方がマシだという思いがありながらも、わが身可愛さで決断を下せないでいる自分への葛藤が反映されています。
これらの言動がタイトルの「罪」と「罰」というキーワードとどう絡むのか、そこも今後の続きを読む上で楽しみとしているポイントです。
後半部分については、本能や欲望により、自分の理性通りのふるまいをできないという人間の弱さを表しているような、そして、その弱さを他人事のように指摘しても、人はあくまでも人であり、その呪縛からは逃れられないという悲痛なメッセージと感じました。
物語の外から主人公の弱さとあるべき行動を考察することは容易ですが、自分が同じ立場になった時に、果たして頭で思い描いたとおりに行動することができるか、同じような結果に陥るのではないか、という主人公から読者への直接のメッセージのようにとらえることもできると思います。
おわりに
今回は上巻の内容でここまでです。
気になるフレーズは少なくなく、厳選に非常に苦労しました。もう既に中巻まで読んでいますが、物語の展開と主人公の思考はさらに加速します。
気になるフレーズも増えてきて、どのフレーズをピックアップするかという苦悩も加速しそうです笑
個人的に印象に残るのは、彼が善行を振舞うときはお金があるときに限定され、その方法もそのお金を渡すことに限定されている点です。
善行という言葉でくくってしまっていいのかも議論がありそうですが見逃してください。
そのお金は彼のものではあるのですけど、いずれも家族から贈られたもので彼自身が生み出したものではないというのも悲しい印象です。
初対面の相手にお金を渡したり、恵まれた金を川に投げ捨てたり、お金に執着がなさそうな行動が時折見られ、お金に執着しない姿が主人公にとってのなりたい姿なのでは考えました。
しかし、計画実行に彼を導く病的な状況から抜け出すには、何よりも最低限のお金が必要であり、これは相反的な振舞いに感じます。
第一部の退官官吏の「貧は悪徳ならず」で始まるセリフもここにリンクしていると感じます。
また、その善行の対象も退官官吏とその家族に限定されている点も気になりました。
主人公も認識していない境遇の類似点(家族の支援で生計を立てており、現在本人は何もなしえていない点)があり、それが影響しているのではと推測しています。
それではまた中巻の日記で!