ドフトエフスキー「罪と罰」(岩波文庫)についての読書日記です。
ここはもう完全なネタバレ回なので、まだお読みになっておらず、結末をご自身で確認したい方はご注意ください!
それではさっそく本題へ!物語はついに主人公が自首のために警察署へ向かおうとする場面となります。
登場人物:今回の記事に関係する人と情報に限定(岩波文庫より引用)
- ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ:前編の主人公。貧しい大学中学生。
- プリヘーリア・アレクサンドロヴナ:ラスコーリニコフの母
- アヴドーチヤ・ロマーノヴナ:ラスコーリニコフの妹。 ドゥーニャは愛称
- セミョーン・ザハールイチ・マルメラードフ:ラスコーリニコフが酒場で出会う退官官吏
- カチェリーナ・イワーノヴナ:マルメラードフの後妻
- ソフィア・セミョーノヴナ・ マルメラードフ:マルメラードフの娘。愛称ソーニャと呼ばれることもある。
- ドミートリイ・プロコーフィチ・ラズミーヒン:ラスコーリニコフの大学の友人
- ピュートル・ペトローヴィチ・ルージン:ドゥーニャ(主人公の妹)に求婚する弁護士
- アンドレイ・セミョーノヴィチ・レベジャートニコフ:ルージンの友人
- アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ:地方の地主。ドゥーニャが家庭教師として住みこんだ家の主人
- ポルフィーリイ・ペトローヴィチ:予審判事
気になったフレーズ
第6部:主人公の決意
P359:警察署への道
ふいにソーニャの言葉が思い出された。(中略)この言葉を思いだしたとたん、彼の全身はがたがたとふるえだした。この間からずっと、とりわけこの数時間はとくにはげしく、彼を抑えつけてきた出口のない哀傷と不安があまりにも大きかったせいだろうか、彼はこの新しい、なんの欠けるところもなく充実した感覚の可能性に、文字どおり身をゆだねた。(中略)彼の内部のいっさいが一時にやわらげられ、涙が目にあふれてきた。立っていたそのままの姿勢で、いきなり彼は大地に口づけした。-主人公
罪と罰 下巻
ソーニャより十字架を受け取り、警察署へ向かう場面となります。
主人公はこの道中でもなぜ自分が自首を選ぼうとしているのか、罰を受ける必要が本当にあるのか、理由を把握できていません。
しかし、第5章のソーニャへの告白時に受けた言葉を思い出した途端に、大きな感情の変化が起こります。
この言葉は主人公がソーニャに何をするべきかを尋ねた際に、罪の懺悔をし、罰として懲役という形の苦しみを受けることをすすめた言葉です。ソーニャは罰から逃げることはむしろ苦しみを生み出すことであると説得し、自首をすすめます。
主人公はこの言葉通りの行動を取ろうとしますが、周りの反応を見て懺悔を声に出すことは躊躇します。
途中で懺悔をやめてしまうことから、主人公はこの時点ではまだソーニャの言葉や懺悔の気持ちに完全に傾倒していないことが見て取れます。
一方、これまで罪を認めたり、懺悔することを拒否してきた彼が、なぜこのタイミングでこのような衝動に駆られたのか、その理由は蓄積された哀傷と不安によるとされています。
この哀傷と不安は主人公のこれまでの言動を見ると、被害者へではなく、懲役中と懲役後の自分に向けられていると推測します。
「充実した感覚の可能性」という点より、主人公は哀傷と不安から逃れるためにソーニャからの言葉に従うという選択にその身を委ねたのでしょうか。
この暴走する感情を解消するために、罪から逃げるのではなく、自首して罪を受け入れることを選択するという、複雑な犯罪者の心理描写を筆者が巧みに描く場面と読み取りました。
P370:警察署への道
死人のように真青な顔をしたソーニャが立っていて、無気味なばかりけわしい視線を彼に注いでいた。彼はその前に立ちどまった。何か痛ましい苦痛にあふれたもの、何か必死なものが、彼女の顔にあらわれた。彼女は、絶望のしぐさで両手を打ちあわせた。彼の口もとに、形にならない、途方にくれたような微笑がうかんだ。彼はしばらくその場につっ立っていたが、やがて苦笑をもらし、後ろを向いて、ふたたび警察署にあがっていった。-ソーニャと主人公
罪と罰 下巻
自首のために一度警察署に入った主人公ですが、ふみきれずに警察署から出てきてしまいます。
その場で、主人公の道中にひっそりとついてきていたソーニャと相対し、最終的な決意をする場面となります。
主人公の微笑と苦笑いはどのような感情から出てきたのかと読み解くことも面白い観点だと思います!
この警察署への道は、キリストの磔への道からのモチーフも読み取れる表現が所々に出てきます。
その道をソーニャは陰ながら見守り後ろからついていきます。途中で主人公が気づく場面もありましたが、道中でコンタクトは取りません。
この警察署への道を一緒に歩くというシーンはまさに中巻のp291に出てきた「同じ道を歩く」シーンとなっているのが印象的だったのでピックアップしました。
同じ道とは、懲役後のシベリアについていくことを主に示唆していると思われますが、こちらも示唆しているのはと推測しました。
ソーニャはその表情としぐさのみで、主人公の最後の決断を後押ししたことも印象的でした。
エピローグ
p389:懲役生活
何のために生きるのか?何を目標にするのか?何を目指すのか?存在せんがために生きるのか?だが彼は以前にも、すでに何千回となく、思想のために、希望のために、さらには空想のためにさえ、自分の存在を捧げようとしたではないか。たんなる存在だけでは、彼にはいつも不足だった。彼は常にそれいじょうのものを望んだ。あるいは、自分のこの欲望の強さだけから、彼はあのとき自分を、他の人間よりもより多くを許された人間と考えたのかもしれない。-主人公
罪と罰 下巻
懲役中の主人公の自問自答です。大学在学中に想像していた理想の未来へ戻ることは出来ず、自分がふみ越えられる存在ではないという絶望的な結論のみを手にした状況で、今後どのように生きるのか、目的と理由を見つけられずにいます。
また、ここの描写で主人公は投獄後も自分の犯した犯行を罪とは認めず、上手く実行できなかった自分の才能の無さや自首という選択が誤りと考えている様子がうかがえます。
懲役中でもその贖罪は形式的で主人公の気持ちという中身が無い、ただ法律で決められた期間を塀の中で過ごす状況となっています。
ここも、ただ司法等で決められた罰を受ければ、本当に罪は償われるのかという気づきを得られるポイントと考えピックアップしました。
p393:懲役生活
彼自身はみなに愛されず、避けられていた。しまいには憎まれるようにさえなった。-主人公
罪と罰 下巻
主人公が囚人の中でも浮いている様子が描かれています。
その理由はいまだに主人公が自分の思考の中で生きていて、現実の世界から逃避しているためと考えます。
自分の罪を認めていないことから、ほかの囚人とは監獄生活の向き合い方に差が出て、それが態度に出ることで、異物感を醸し出していると推察します。
囚人が主人公に怒るタイミングとして描かれるのがお祈りのシーンであることも、自分の罪と向き合っているかの違いによる影響があると考えました。
また、ほかの囚人を見下すようにとらえていることが描写されていることから、自分が他と異なるという思想やプライドは捨てきれておらず、周囲の人間とコミュニケーションを取ろうとしたり、現実の人間関係に入り込もうとする姿勢が無いということも読み取れます。
p401 :懲役生活
どうしてそうなったのか、彼は自分でも知らなかった。ただ、ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた。彼は泣きながら、彼女の両膝を抱えた。最初の一瞬、彼女ははげしくおぼえて、顔が死人のようになった。(中略)しかし、すぐさま、一瞬のうちに彼女はすべてを理解した。彼女の目にかぎりもない幸福が輝き始めた。彼女は理解したのであった。もう彼女には一点の疑いもなかった。彼は彼女を愛している、そして、とうとう、この瞬間がやって来たのだ・・・・・。(中略)だが、この病みつかれた青白い顔には、新しい未来の、新しい生活への全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた。ふたりを復活させたのは愛だった。-主人公とソーニャ
罪と罰 下巻
自首への道においても、周囲への告白を民衆の反応を見て中断したり、警察署に入っても一度出てきてしまうなど、ためらいの姿勢が見られた主人公。
そして、懲役中も自分の罪を認めようとせず、懲役を形式的な罰として過ごす様子から、主人公の本質は変わっていないことが読み取れます。
しかし、このシーンで主人公が完全に生まれ変わる瞬間が訪れます。いわゆる本作最大のクライマックスシーンとなります。
生きる理由を見いだせなかった主人公が、生きる理由と目的を取り戻し、現実の世界を生き始めるきっかけとなったのは、「愛」と結論づけられています。
この結論は、作者が愛を重要なテーマとするキリスト教徒であることの影響もあるでしょう。
その視点で考察すると、無神論者である主人公を、「罪の人」でありながら熱心なキリスト教信者であるソーニャが献身的な姿勢により改心させ、救う物語という見方も出来るかもしれません。
そして、「ふたり」という表現より、ソーニャ自身もこれまでの献身が報われたことが読み取れます。
主人公を救うことで、ソーニャの罪も許されたということでしょうか。
その後の生活は新しい世界と表現されることから、エルサレムでの救済という比喩もあるのかもしれません。
また、愛、人間関係というのは他の心理学者からみても、人生を生きる上で重要な要素としてあげられます。
そのため、ここはただの宗教的な思想ではなく、現実の人間の本質を反映した物語であると考えます。
p402 :懲役生活
この日、彼には、彼のかつての敵であった囚人たちまでが、みな自分を別な目で見はじめたように思われた。彼は自分からすすんで彼らと口をききさえし、彼らも愛想よく彼に答えた。彼はいま、そのことを思いだしていた。だが、実をいえばそれが当然ではないのか、いまこそすべてが変わるはずではないか?-主人公
罪と罰 下巻
ここより、ソーニャに対してのみではなく、囚人に対してもふるまいやとらえ方が変わっていることがわかります。
現実からの逃避をやめて現実の世界を生きはじめ、その他の人間とも通常にコミュニケーションすることができるようになったと読み取れます。
彼の態度が変わったから周囲の態度も変わり見え方が変わったのか、それとも周囲の見方が変わったから主人公の態度が変わり、それに応じて周囲の実際の態度も変わったのか。
個人的には両方の効果があると考えています。
周囲を変えるよりは自分を変える方が容易であり、他人を変えることは困難ですがその人をどう見るかを変えることは容易です。
この辺りは7つの法則等のビジネス書でも指摘されるポイントですね。自分の力でなんとかできるところに注力すること、そして自分の力でなんとかできるところを広げることで自分の理想の人生に近づいていくというステップを日々刻むことが重要ですね。
彼らの再生の人生はまだ続きますが、ここで我々にとっての物語は終わりという、今後の二人の未来への関心という余韻を残したまま本書は終わります。
まとめ
全7記事として、約3週間をかけて罪と罰を読んできました。
自分にとっての備忘録、読んだことが無い人には関心を持つきっかけとして、読んだことがある人には名シーンを回想するきっかけとして記事を書き進めてきました。
皆様にとっての気になるフレーズはありましたでしょうか?
もし、皆様にとっての気になる部分や解釈がありましたらコメントでご教示いただけるとうれしいです!
個人的には、現実を生きる重要性、自分のアイデンティティを確立する上での人間関係の重要性、罪と罰の定義について、といったあたりの印象を強く受けました。
気になるところはもっとあったのですが、泣く泣く取り上げられなかったところは多いです。
下巻は気になるフレーズが多すぎてびっくりました。これでも結構候補から絞ったのですが・・・笑
1通り読んだのみで背景知識の探求がまだまだな状態でも、なぜここまで有名な小説であるかの理由がよくわかりました。
今後勉強をしていく中で見落としている点に気付いたら、その都度更新して記事の内容をブラッシュアップしていこうと思います!
分割したのに今回の記事も長くなってしまったのでこの辺りでノ
それではまた次の記事で!