どうもです!アブラハム・H・マスロー氏の「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。
第7回から第Ⅲ部「成長と認識」に入り、前々回は第7章の「激しい同一性の経験としての至高経験」に入り、至高経験の中で得られる同一性の定義を確認しました。
そして、前回よりその同一性ついて下記のような様々な角度で検討しており、今回は⑤世界からの自由からを整理します。
- 統合性
- 完全なる機能
- 自発性
- 独創性
- 世界からの自由
- 無我
- 完成
- ユーモア
- 感謝の念
上記の要素はいずれも人生や日々の充実度に寄与する重要な要素と感じます。これらの要素に分けて同一性を検討することで、日々の活動をより満足度の高いものへ改善するためのヒントを得られるのではないかと期待しています。
それでは早速本題に入りましょう!
至高経験の中で得られる同一性
世界からの自由
今回最初に取り扱う要素は世界からの自由です。筆者は至高経験における個人を下記のように表現します。
至高経験においては、個人は最もいまここの存在であり、いろいろな意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も「開かれている」。たとえば、かれは他のときよりもよい聴き手になることができるのである。かれは、惰性に流れたり、期待を持ちすぎることが極めて少ないので、過去の状態による予想(それはいまのものとは同じであり得ないが)だとか、将来の計画にもとづく希望や懸念(それは現在を、それ自体目的とするのではなく、未来に対する手段としてのみ考える)に引きずられて歪められることもなく、すべてに耳を傾けることができるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p138
世界からの自由といっても、他者や周囲の評価のみを意味するのでなく、自分の未来(頭の中の想定)や過去も含んだ世界を意味していることが分かります。
人間、過去や経験に固執しすぎると枠にとらわれて、新しい情報を受け入れづらくなったり、新しい発想が思い浮かびにくくなります。
直近で取り扱った遅考術でも経験や過去により生み出された固定概念や思い込みの危険性を学びましたね。
一方で未来にばかり目を奪われていては机上の空論に陥りやすくなりますし、未来への不安が募っている状況では目の前の現在に集中しにくくなります。
また、行動の動機が将来の見返りに基づく場合、行動は目的ではなくその手段となるため、「やりたい」という気持ちよりも「するべき」という論理が優先され、本来やりたかったことからの乖離が懸念されます。
他人や周囲の評価や要求等のしがらみや、過去の束縛、未来への不安と強迫から解放されることで、現在の活動に集中し自分らしさを発揮することが可能となります。
ただ、行動が手段か目的となるかの区別は難しく、特に人を巻き込む活動は周囲に与える影響がその充実感に大きく影響を与えるため、他人や未来からの完全な自由というのは難しいのではと個人的に感じます。
そんな私の疑問に対し、下記の筆者の記載がヒントを与えてくれると感じました。
(前略)わたくしが自己ならざるものから脱却し、わたしを支配するものを否定し、その規則にしたがって生きることを拒んで、わたくしに本質的な法則や規則によって生きることを主張するとき、もっとも純粋に自分になるのと同じである。こういうことを考えると、精神内(わたくし)と精神外(他)とは結局のところそれほどひどく離れておらず、事実たしかに対立的なものではないことがわかるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p139
上記の記載より、他者や未来のための行動でも、外部からの要求や未来からの恐怖により支配により強制されたものではなく、自分の本心からやりたいと思って取り組むのであれば、不要な束縛からの解放により世界からの自由の要素を持つのではと推測しました。
そのため至高経験の同一性を得るには、活動が自分のやりたいことに沿っているかが重要であり、それを判断するには自分の本心は何を望んでいるかについて、自分との対話が必要になると整理しました。
いわゆる内発的動機づけにより促されているかが重要になると感じました。
無我
次の要素は無我となります。筆者は至高経験において、人は欠乏欲求による動機を持たなくなると表現します。
この状態は自己実現する人間と共通点を持ち、行動を手段ではなく行動それ自体を目的とするという特徴を下記のように記述します。
いまや、かれの行動は全体的に、欠乏をともなわず、ホメオスタシス的でもなければ、欲求解消的でもない。行動そのもののため以外に他意はない。彼の行動や経験は、それ自体のためであり、それ自体として正当化される。手段行動、あるいは手段経験ではなく、むしろ目的としての行動であり、目的としての経験になるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p140
上記の記載より、至高経験を得やすくする条件として低次欲求の解消が挙げられると考えられます。低次欲求が未解決な欠乏の段階では欲求の解消が優先されるため、行動は欲求解消のための手段になりがちでしょう。
低次欲求が解消され自己実現へ向かう人は、欠乏欲求の影響が少なく、行動や経験の意義や充実感を素直に受け取りやすくなり、結果として至高経験も得やすくなると感じました。
至高経験は自己実現に向かうための手段ではなく、自己実現へ向かう中で得られる結果というのがこの章で強く感じた印象です。
完成
次に筆者が紹介するのは「完成」という要素となります。筆者は読者の理解を助けるために行為の完了、カタルシス、クライマックス、成就等、多様な言い換えをします。
ただ、至高経験がそれ自体を目的としているならば、その行動の終末を意味する完成よりは、そこを目指すまでの過程の方でより至高経験を得られるのではと疑問を感じました。
この辺りは最近繰り返し引用しているチクセントミハイ氏が提唱するフロー体験との違いといえるでしょう。
フロー体験で普段の活動による楽しみと創造性を増す1/5:読書日記また、筆者は「完成」をどのような定義で使用しているかを見ることにより、筆者が「完成」という要素にどのような意図を込めているかを推測出来ます。
筆者はこの章で下記のように記述します。
真実の人間は、ある意味で完全であり、究極的なものである。かれはたしかに主観的にも時折、究極性、完成、完全性を体験する。またかれは、世界のうちにたしかにそれを見るのである。ただ至高経験者のみが完全な同一性に達し得るということになるかもしれない。至高経験者でない人は、つねに不完全にとどまり、欠乏し、努力し、なにか欠けた存在として、目的のうちよりも手段の段階で生きなければならないだろう。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p142-143
完成の中には行為自体の完成のみでなく、実施者自身の完成という意味も含まれていそうです。これは本書の「完全なる人間」というタイトルにも繋がると見て取れるでしょうか。
欠乏のない完成に近い人間であるからこそ質の高い経験を得ることができ、その経験によってより人生の充実度・完成度を高められるというイメージを持ちました。
ユーモア
次に筆者が紹介する要素は「ユーモア」、言い換えるとB遊戯性となります。
他の要素の「独創性」の源にもなりそうですね!
「ユーモア」の説明としては下記が最もイメージをしやすいと感じました。
そこでは、(欠乏Dに動機づけられるのでなく)豊かさとゆとりがまるで溢れるばかりの特質をもつ。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p143
欠乏欲求に動機づけられ活動では、欠乏の満足が最優先されるためユーモアを入れる余裕は無くなります。
欠乏が解放されたそれ自体を目的とする活動であるからこそ、いろいろ試したり遊び心を入れたりする余地があり、その活動自体の楽しみを増幅できます。
また、筆者はこのユーモアには幸福の喜びや愉しさ、勝利、気晴らしの性質や成熟とあどけなさの共存があると言及します。
後者の共存については、ユーモアを実現するにはその源泉となるアイディアのストックやスキルの成熟と同時に、面白さを増すためにそれらを駆使して試行錯誤したいという子供のような好奇心も必要になると読み取りました。
そして、「ユーモア」は美や愛や創造的知性と同様に多くの解決不能な問題を解くという側面があり、D領域とB領域とに同時に生きていると筆者は記述します。
こちらの解釈は若干苦労していますが、ユーモアにより生まれた面白さが活動の充実感として目的となるのに加え、新しいアイディアや独創性の源泉ともなることで、欠乏や問題を解消する手段ともなりえるということだと捉えております。
発明やアイディア商品のようなイメージを持っています。発明者は発明の過程で楽しみますが、その結果として色んな問題の解決にもつながるような。
感謝の念
至高経験の中で得られる同一性について、最後の要素は「感謝の念」です。
至高経験は計画や思惑により得られるものではなく、思いもよらず偶然もたらさせるものであり、人々は得られた至高経験に対して自身が身分不相応と感じることが珍しくないと筆者は説明します。
至高経験を得られる人は自身で制御できる範囲をわきまえており、制御範囲外の影響の存在により至高経験がもたらされたと認識する傾向が強いと読み取りました。
そしてこの謙虚さと自分以外からの影響の認識により生まれるのが感謝の念となります。
感謝の念と言ってもその対象は事象から人まで様々であることを筆者は記述します。
結果について共通しているものは、感謝の気持であり、それは宗教的な人であれば神に向けられるし、そうでない人々じゃ運命や自然や人びと、過去、両親、世界、そのほかこの驚くべきことを可能にするのに力のあったあらゆる事柄、なにがしかの事柄に向けられるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p144-145
この感謝は世界や周囲の人々を、自分に恩恵をもたらしえる存在と捉えているから生まれるものと推測します。
B認識の特徴には対象を自分の手段ではなく独自のかけがえのない対等もしくは自分以上の存在として認識することがありました。
マスロー「完全なる人間」を図を交えて整理してみる_8対象に敬意を持った謙虚な姿勢であるこそ、物事の本質を深く多角的に理解できます。そしてその中には、意識を向けなければ気づかない有難さや恩恵も含まれるでしょう。
感謝の積み重ねや周囲への敬意により、身の回りの有難いことに気づくアンテナが成長する。そして広がったアンテナにより世界の素晴らしさや感謝を認識できるようになり充実感が増し、アンテナの成長に繋がる感謝の思いや経緯が益々湧くという好循環が生まれるのではと考えました。
終わりに
以上、第7章の「激しい同一性の経験としての至高経験」について、至高経験で得られる同一性にどのような要素があるかを整理してきました。
- 統合性
- 完全なる機能
- 自発性
- 独創性
- 世界からの自由
- 無我
- 完成
- ユーモア
- 感謝の念
いずれも活動や経験の充実度を増してくれる要素であり、自分にとってどの活動が重要なのかを判断する基準とできるのではないでしょうか。
筆者は至高経験を計画的に実現するのは難しいと説明しているため、至高経験を確実に達成するための方法は無いのだと感じます。
しかし、その一方でその確率を上げることはできると個人的に感じます。
例えば上記要素のいずれか、もしくは近いものを感じる活動や時間を増やす、上記要素を意識して取り組み方を変えてみる、その活動をより楽しむ/充実感を得るにはどうすればいいか考えてみるなどでしょうか。
行動機会を増やし、その中で試行錯誤をすることで、至高経験を得る可能性の増大を目指すのです。
一方、至高経験を意識しすぎるとその活動が、至高経験を得るための手段となってしますので、目的としての行動という観点では至高経験から遠ざかってしまいそうというジレンマに注意ですね。
最後に結びの言葉として筆者が同一性の目標とその立ち位置について補足した記述を紹介し、第7章の整理を締めくくりたいと思います。
同一性の目標(である自己実現、自立性、個性化、ホーナイの現実自己、真実性など)は、同時にそれ自体究極の目標であるとともに、また過渡的な目標、経過のならわし、同一性の超越にいたる行路の一段階であるように思われる。このことは、そのはたらきがそれ自体を消してゆく、ということもできる。換言すれば、われわれの目標が東洋的な目標の、自我超越、自我抹消であり、自己意識や自己観察の忘却であり、世界との融合、同一化(ブッケ)、ホモノミー(アンギャル)であるとすれば、大多数の人々がここの目標にいたる最善の方法は、精神を統一し、強い現実自己に達することによってであり、また禁欲主義よりも基本的欲求の満足を通じてである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p146
目的であり過程という同一性の目標が持つ二面性の両立、精神の統一の重要性、欲求の満足の肯定という筆者の主張が詰まってます。これらはこの章に限らず、筆者が一貫して主張するポイントであると認識しています。
次回からは第8章「B認識の危険性」というこれまでとは反対の視点による章となります。
それではまた次の記事で!