マスロー「完全なる人間」を図を交えて整理してみる_8

どうもです!アブラハム・H・マスロー氏「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。

前回は第Ⅱ部「成長と動機」の最終となる第5章「知ろうとする欲求と知ることのおそれ」を整理しました。

今回から第Ⅲ部「成長と認識」第6章「至高経験における生命の認識」に入り、本書の整理も中盤に入ります。

高度の成熟、健康、自己充実に達した自己実現をした人の特徴として、筆者は至高経験に着目していたようです。

至高経験とは最高の幸福と充実の瞬間を指し、下記のような瞬間が例示されます。

B愛情の経験、親としての経験、神秘的、大洋的、自然的経験、美的認知、創造的瞬間、治療的あるいは知的洞察、オーガズム経験、特定の身体運動の成就

これらの経験が多いほど人生の充実にもつながりそうという印象ですね。ただ、内容を想像しやすいものと、何を指しているか分かりづらいものもあると思います。

第6章で、筆者はこの経験が認識・体験されるプロセスの記述を目指します。第6章を整理していく中で至高経験とはどのような経験を指しているかというイメージを掴むことができるでしょう。

それでは早速本題に入りましょう!

導入

至高経験に関するアンケート

まず筆者は、本章と次章の提言の根拠となったアンケートについて紹介します。そのアンケートは主に下記の質問が基本となります。

あなたの生涯のうちで、最も素晴らしい経験について考えてほしいのです。おそらく、恋愛にひたっている間や、音楽を聴いていて、あるいは書物や絵画によって突然「感動」を受けたり、偉大な創造の場合に経験する最も幸福であった瞬間、恍惚感の瞬間、有頂天の瞬間について考えてほしいのです。はじめにこれを挙げて下さい。それから、このよう激しい瞬間に、あなたはどう感ずるか、ほかのときにあなたが感ずるのとは違っているか、あなたはそのとき、なにか違った人になるかどうか話してください

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p89

これは約270名に対して実施されたアンケートであり、この回答結果と、自発的に体験を報告してくれた50人の協力者の回答と組み合わせることで、至高経験とはどのような経験どのように認識・体感されるかの記述を筆者は目指します。

至高経験それを体感するプロセス、そして、どのような人が至高経験を体験できるかを調査することで、至高経験を得るため自己実現を達成するためのヒントが得られると期待できます。

この章では、わたくしは新しいやり方を打ち出してみたい(生命心理学へ)。(中略)なんとかして完全に展開した人とそうでない大多数の人びととの動機生活や認知生活の著しい相違を、ことばに表現しようとするものである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p91

上記の完全に展開した人とは、至高経験により充実感を得て自己実現を達成している人であると解釈しています。

生命の認識

筆者はまず、人の世界の認識方法について言及します。認識方法人が人生や世界をどのように体験するかに大きな影響を与えます。

ここで、D認識B認識という二種類の認識方法が取り上げられます。

欠乏に基づくD:生成(心理学、愛情)自己実現の欲求にも基づくB:生命(心理学、愛情)という区別は本書における筆者の中核となる主張となります。

B心理学とD心理学の立ち位置に関する私のイメージ
マスロー「完全なる人間」を図を交えて整理してみる_1

筆者は本章でB:生命について下記のような記述を追加し、筆者の定義がより明確となります。

生命の状態(当座のみの、高次に動機づけられた、衝動でもなく、自己中心的でもない、無意図的、自己確認的、終局経験で、完全な目標達成の状態)

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p91

筆者はこの定義を元とし、至高経験における認識に着目する上で、個人の欠乏欲求で構成されたD認識と対照的なB認識という概念を追加します。

第3章「欠乏動機と成長動機」において、欠乏動機に駆られた人が自分の都合の良いように世界を解釈しようとする傾向があるのに対し、自己実現を目指す人世界をありのままに認識できると筆者は主張していました。

その点を考慮すると、D認識は自分の欠乏を満たしたいという欲求のための手段として自己中心的に世界を捉えるのに対し、B認識世界の理解自体を目的とした脱手段的で無自我の認識という違いがあると解釈できます。

ここまでが前提条件として、B認識の定義を具体化しながら、至高経験についての考察へテーマが移ります。

至高経験におけるB認識

筆者は至高経験とその認識について様々な角度から1つ1つ記述していきます。至高経験にどのような特徴があるのかB認識とは具体的にどのように発揮されるのかを踏まえてみていきましょう!(今回はB認識が中心です。)

対象の全体的理解と傾倒

まず筆者はB認識の特徴を下記のように主張します。

B認識では、経験ないし対象は、関係からも、あるべき有用性からも、便宜からも、目的からも離れた全体として、完全な一体として見られやすい。(中略)これは大部分の認識経験であるD認識とは対照的である。

(中略)

B認識のあるところ、認識の対象にはもっぱら、またすっかり傾倒される。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p93

以上の引用箇所を中心とした筆者記述を参照し、B認識の主な特徴を下記のように整理してみました。

  • 目的としての理解:欲求という目的のための手段としての理解ではなく、理解すること自体が目的となる。私欲による認知の歪みが無く、有用性や利益から解放された素直な認識が可能となる。
  • 没入的観察:対象への強い関心による傾倒により、没入的な観察となる。対象を内包した熱心な観察により、多面的かつ素直な認識に繋がる
  • 絶対的な認識:対象を独自・特異的な存在として尊重した認識。他との比較やラベリング等の分類が挟まれないため、観察者の意図が挟まれにくい
  • 全体的理解:上記の観察により、対象を独立的かつ多面的に把握することが可能となり、完全な全体的理解に近づく

一方で、対照となる欠乏によるD認識では下記のような特徴が挙げられます。

  • 手段としての理解:自身の欲求の解消のための理解となるため、自身の都合の良いように解釈しようとする衝動が発生しやすい
  • 外部からの観察:対象に注意を向けた観察。表面的で注意を向けた範囲に情報が限定した情報収集となり、情報の見落としや切り取りが生まれやすい。
  • 相対的かつ分類による認識:他の対象と比較した相対的な認識。対象そのものではなく分類による認識のため、分類の過程における情報の取捨選択で観察者の意図の影響を受けやすい
  • 部分的理解:上記の観察による観察者の意図が優先された観察により、認識の歪みや情報の欠落に繋がる

D認識の特徴は、「多様性の科学」で学んだ人間の本能から生まれる認識の歪みと共通点が見られますね。

この人間の本能による認識の歪みは、繋がりが広がったはずのインターネット社会で分断が絶えない要因として考えられています。

多様性を実際に活かすために必要なことは?-読書日記1/2

対象を正しく理解することよりも自身の欲求を満たすことを優先した観察は、D認識による都合の良い解釈を生む要因となります。

物事を認識するとき、より正しく知ることを目的としたB認識であるのか、別の目的を満たすことに固執したD認識であるかに注意することで、自身の認識の歪みの回避に繋がると考察できます。

B認識D認識主な特徴を下記の通り図に整理してみました。

人間との関係と絶った認識

次に筆者は認知を人間との関係性という観点で下記のように区別します。

  • 人間に無関係なものとした認知:B認識
  • 人間に関係あるものと前提とした認知:D認識

自己実現した人は世界を人間一般から独立したものとして人間の意図を投影せずに観察できることを筆者は主張します。

一方で、人間に関係あることを前提とした認知は、世界は人間のためにあるという自己本位的な視点での認識となります。

対象そのものの本質ではなく、人間への影響や利益、恐怖に着目した、狭い視野による部分的な認識となります。

自然や世界を独立とした存在ではなく、人間の道具もしくは脅威となる側面に限定した認識となることを意味します。

K
K

この辺りはハイデガーの道具的存在という概念と関連付けて考察できると思います。

一方で自己実現した人々は、人間に与える影響、人間との関係性という観点から解放され、物事をあるがままに観察することが出来ます。その結果、より一層本質的な観察が可能になります。

筆者は蚊を例示し、基本的に人に害を与える存在であることを無視できれば、その存在の不思議さや構造や機能の神秘さに着目し、魅惑的な対象として熱中して観察できることを主張します。

愛情は盲目ではない

次に筆者は愛情における認知にテーマを移し、まだ検証されていない点があることを認めながらも、愛情により人は対象をより熱心に繰り返し観察するようになるため、多面的な理解が可能になることを主張します。

習慣的に「愛情は盲目」というが、愛するものは、ある事情のものでは、愛のないものよりもよい認知力を備えていることを認めなければならないのである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p98

愛情が無ければ、対象の観察の目的は損得や自分の影響の分析が中心となります。そうなると、観察により分析が進むにつれ、対象への関心は薄まっていきます。

その一方で愛情のある観察は、見れば見るほど対象の新たな魅力不思議な点が見つかり、対象への愛情・関心がより深まるという違いがあります。

前述の蚊で例示すれば、蚊に関心が無い人は自分に害を及ぼす家の中の蚊には対処を迫られますが、対処の後はその存在は忘却しますし、家の外の蚊には関心を示しません。

一方、蚊に関心を示す研究者等は、自ら進んで蚊を探しに行き色んな角度から観察することで理解を深めます。

K
K

勿論、全ての者に対してこれほどの関心を示すことはできないので、B認識が可能な範囲は狭いと考えますが。

そのため、愛さない者よりも愛する者の方本質的な理解をより深められるというのが筆者の主張となります。

無我の認識

次に、西洋の昔の心理学は欠乏によるD認識の存在を中心に理論を形成していましたが、東洋の心理学で提唱されていた新しい形の無我の認識が存在することを筆者は示唆します。

  • 西洋の心理学(古典的フロイト):人間の欲求、おそれ、関心がつねに近くの決定要因でなければならない
  • アメリカの心理学(古い考え):認識は道具として用いられ、ある程度利己的なもの、観察者の自我を中心とした観察
  • 新しい考え+東洋の心理学:自己実現や至高経験における認知は、自我超越的、自我忘却的で、無我であり得る。観察者の自我が忘却された対象中心の観察

この無我の認識は、前述のB認識の特徴の一つとして挙げられていました。

手段としての観察は利害関係などによる色眼鏡を通した観察者中心の観察になるのに対して、対象中心の観察となる無我の認識は対象をそのままの本質の姿として観察可能です。

また、この没入した無我の認識から得られる知見により、共感同一化の定義に関する示唆が得られると筆者は主張しています。

K
K

共感はコミュニケーションの上で直近増々求められるスキルです。また同一化は次の第7章が丸々割かれるほど大事なテーマとなっています。

上記により、熱中できる対象は我を忘れて夢中にできる体験を生み出しながら関心をさらに加速させる好循環が生まれるため、至高経験を得るためには、目的や利害関係を忘れて熱中できる対象を探すことが重要と考えられます。

そして熱中できる対象を探すには、体験への自身の感じ方を自己との対話で確認しながら新しい体験・刺激を求めていく姿勢が大事になると考えます。

この体験をどのように感じるかという段階で、認識方法という今回のテーマが鍵となります。

ここまで第6章「至高経験における生命の認識」前提部分と、至高経験の体験にも関わる認識方法という側面を中心にまとめてきました。

BとDという筆者の分類が本格的に記述され始め、本書の題名でもある「完全なる人間」という筆者の意図するものに徐々に迫っていると感じます。

次回は第6章の後半として、至高経験の特徴その経験を人がどのように認識するかを中心にまとめていきます。

それではまた次の記事で

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