マスロー「完全なる人間」を図を交えて整理してみる_9

どうもです!アブラハム・H・マスロー氏「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。

第7回から第Ⅲ部「成長と認識」第6章「至高経験における生命の認識」に入り、今回から具体的に至高経験の特徴その経験を人がどのように認識するかというテーマになります。

導入繰り返し

至高経験に関するアンケート

前回記事でも触れた通り、筆者は至高経験に関する下記質問を中心としたアンケートを実施し、至高経験とはどのような経験どのように認識・体感されるかを調査しています。

あなたの生涯のうちで、最も素晴らしい経験について考えてほしいのです。おそらく、恋愛にひたっている間や、音楽を聴いていて、あるいは書物や絵画によって突然「感動」を受けたり、偉大な創造の場合に経験する最も幸福であった瞬間、恍惚感の瞬間、有頂天の瞬間について考えてほしいのです。はじめにこれを挙げて下さい。それから、このよう激しい瞬間に、あなたはどう感ずるか、ほかのときにあなたが感ずるのとは違っているか、あなたはそのとき、なにか違った人になるかどうか話してください

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p89

今回、至高経験に関する記述が増えますが、筆者の主張は上記アンケートによる回答を根拠としています。

至高経験におけるB認識

至高経験はそれ自体が価値あるもの

筆者は至高経験について下記のように記述し、それ自体が価値を持ち目的となる活動であることを強調するとともに、この経験が人生を有意義なものにするという研究者からの意見も紹介します。

至高経験は自己合法性、自己正当性の瞬間として考えられ、それとともに固有の本質的価値を荷うものである。つまり、至高経験はそれ自体目的であり、手段の経験よりもむしろ目的の経験と呼べるものである。

(中略)

芸術、宗教、創造性、愛情に関する多くの研究者が一致して、これらの経験は本質的に価値があるというだけではなく、非常に価値が高いために、これを時折体験することによって人生を有意義にできる、と述べている。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p100

アンケートに回答した被験者は愛情経験神秘的経験美的経験創造的経験突然の洞察を通して上記のような体験をしたと報告したことを筆者は確認しています。

筆者は治療場面における突然の洞察について、知ることの恐れから自己を守ろうとする人にとって治療の過程で自己を受け入れる辛さがあるにもかかわらず、被験者がこの経験を価値ある好ましい体験であると回答していることに着目し、この経験、もしくはその過程で苦しみがあったとしても価値が上回る経験であると主張します。

また、筆者は至高経験がそれ自体が目的となる点にも注目し、「行動はすべてのある先の目標を達成するために行われる」という西洋の心理学で一般的となっていた考えに疑問を投げかけます。

すべての行動はその他の目的のための手段となるわけではなく、一部その行動自体が目的となる行動が存在することを筆者は主張します。

K
K

それ自体が活動する目的となる至高経験は、生きる理由の1つともなるため、日々の生活を充実させると同時に、人生をより有意義なものにする原動力となると考えられますね。

至高経験は時空を超越する

次に筆者は至高経験の経験者は、時間の経過判断が不正確になったことを訴えます。

彼らは時間が停止したかのようにその瞬間に集中しますが、その間の時間を正確に認識できず、時間があっという間に経過していたことを報告します。

これは「熱中のあまり時を忘れた」という表現もありますので、比較的イメージしやすい特徴でしょう。

至高経験は評価をおこなわない

ここでは主に至高経験における世界の認識の仕方と、その方法により発見されるB価値が紹介されていますが、解釈に苦戦中です。

まず筆者は至高経験を経験のみで完全で完成されたものであり、本質的に必然的で不可避のあるべき姿であると述べた後、至高経験では現実をより本質的に認識することが出来ると主張します。

この主張を認めることで下記のように生命全体は中立もしくは善であり、それを感じるには世界全体を見ようとする認識の方法が重要となるという次の議論に進めます。

生命の全体はその最善の、オリンポス山のような高所から見たとき、ただ中立的か善かであって、悪や苦痛や脅威は、ただ部分的な現象に過ぎず、世界を全体的、統一的に見ようとしないで、それを自己中心的なあまりにも低い立場から見ている結果であるといっても、ほとんど差し支えないのである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p103

ここから、生命や世界そのものは中立もしくは善であり、それを悪いものであると感じるのは認識方法の問題であるという筆者の見解が読み取れます。

自分たちが世界の一部であると捉えた時、世界はただそこにあるだけの中立的な存在と認識できます。

K
K

理不尽と感じる出来事はありますが、世界・自然自体に特定の生物を害そうとする意思はないはずですよね。

一方で利己的なレンズを通して、世界を自分や人間のための存在であると認識した時、自分の思い通りにならないことに視点が集中してしまい結果として、世界への印象がネガティブになってしまうことが想像されます。

視野が狭まるため、相対的に思い通りにいかない点が強調されてしまう

上記主張のように、筆者は世界の認識方法2種類に分類し、その分類方法と過程を下記に整理してみます。

  • 通常人間は有用性、望ましさ、善悪、目的といった基準を通して手段価値を判断して行動を進める
  • つまり、行動は目的のためにあり、周囲をその手段として利己的に認知・評価する
  • この認識方法では世界はもはや目的に対する手段に過ぎなくなる
  • この認知は欠乏動機の立場で行われており、世界全体や本質の認知は難しく世界そのものの価値を感じられない
  • 一方で至高経験においては、手段や利己性を排除してそのものの本質を認識する対照的な認知が起きる
  • この至高経験における認識により世界全体の価値(B価値、本質的価値)を始めて認識できる

世界を自分の手段ではなく、ただそこにあるそのままの存在として認識することで、本質的な価値を認識できると筆者は主張します。

無我による没入的観察(至高経験)により本質的な価値を認識可能に

B価値

ここでB価値というまた新たな言葉が登場しました。筆者はB価値の種類を下記の通り紹介します。

  1. 全体性:統合性、構造、相互関連性等
  2. 完全性:必然性、的確性、完備、正当性等
  3. 完成:終末、応報、成就、運命等 
  4. 正義:公正、正当性、秩序整然等
  5. 躍動:過程、自発性、不死等
  6. 富裕:分化、複雑性、錯雑
  7. 単純:正直、抽象、本質等
  8. 美:正確、形態+他の特徴の要素
  9. 善:望ましさ、徳行、正直等
  10. 独自性:個性、不可代理性、新奇等
  11. 無碍(囚われずに自由自在であること):安楽、緊張、努力、優雅等
  12. 遊興:歓喜、快活、ユーモア等
  13. 真実、正直、現実:赤裸々、純粋、真髄等
  14. 自己充足:自立性、自己決定、環境超越、みずからでるためみずから以外を必要としないこと等

これらの特徴は共存・重複可能であり、ものによっては統合されることがわかります。

例えば、独自性の存在により、遊興が生まれやすくなったり、単純(シンプル)完成されたデザインは美しいと評されます。

至高経験による認識によって、世界に内包されたこれらの価値を網羅的に発見することが可能となります。

また、これらの種類は人間が普遍で価値を感じやすい特徴といえるでしょう。自分が何に心を動かされたのか気持ちや心情を言語化する上でも参考になりそうと感じています。

K
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趣味の油絵でどれかをテーマに加えることで、作品の魅力がより増すかもと思ってみたり・・・?

至高経験の絶対性

筆者は相対性と絶対性を取り扱うことについて、科学的な観点からの危険性を指摘しながらも、このキーワードはアンケート協力者の回答にも多く登場するため取り扱わざるを得ないと主張します。

筆者は思考経験で体験できる価値は時空の超越という時間軸のみでなく、どの人にも同様の価値を持つという観点も含めて絶対性を持っていると主張します。

例えば、自然の美しさは昔から、また、広い地域で人を惹きつけており、その価値は相対というよりは絶対的といえるでしょう。

もちろん、価値の評価には時代背景も含めた評価者の主観が基本的に入るため、感じられる価値には絶対性だけでなく相対的な部分も同居します。

筆者は絵画を例に出し、本当に優れた作品はB価値の多くの特徴を持つため、多少の相対的な評価の変動があっても時代や国を超えて人に愛されることを指摘し、至高経験における価値には絶対性があることを主張します。

絵画について例示を追加するなら、評価者の視点が投資等を目的とした手段としての評価であった場合、B価値は認識から零れ落ち、評価者が認識できるのは相対的な価値のみとなってしまうでしょう。

同じ対象を見ても見方により受け取る価値は異なる

至高経験の受動性

次に価値を認識する姿勢にテーマは移ります。

通常の認識では、対象を選択し注視する過程が含まれます。ここには認識者の意図や思惑が生まれ、主観の色が強くなります。

一方で筆者は老子をはじめとした東洋の思想も含めた幅広い見聞にも着目し、至高経験におけるB認識では受動的な「無欲意識」であると主張します。

わたくしはここでまた、「自在に漂う注意」というフロイトの説明を思い出すのである。これまた能動的でなく受動的であり、利己的でなく無我であり、警戒的でなく夢想的であり、不寛容ではなく寛容である。それは見るというものではなく認めることである。経験に身を任せるということであり、甘受することである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p110

また、カウンセリング等との共通点があり、よい治療者は能動的ではなく受動的に聞き、自分の意見を押し付けずに、相手の話を引き出す姿勢が必要となる点を筆者は指摘します。

この姿勢は本ブログでも扱ったケイト・マーフィ氏「LISTEN」(日経BP)で学んだ傾聴の姿勢が思い出されました。

失われつつある聴く力を取り戻そう!

筆者は至高経験の認識に対する姿勢を下記のように主張します。

普通の認識は高度に意志的であり、したがって要求し、予定し、前もって予想をたてるのである。ところが至高経験の認識にあっては、その意識は干渉しない。そのままにしておくのである。それは受け容れるが、求めはしない。われわれは至高経験を命ずることはできない。それはわれわれにたまたまおこるのである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p111

至高経験を目指したい一方で、求めようとしてはいけないというのはもどかしさを感じる点ですね。

もし至高経験を目指すのであれば、瞑想やマインドフルネス等無意識的な無我の姿勢を身に着けることで、受動的なアンテナを広げいつでも世界の価値を素直に受け入れられる準備をしておくことが一つのアプローチなのかなと感じています。

終わりに

ここまでの仮説が正しいとすると、今いる世界の価値を最大限に受けるには、利己心から脱却し一歩引いた客観的で受動的な認識が重要であると考えられます。

世界をより本質的にとらえ、価値を最大限に認識したいのですが、それを意識しすぎると逆に至高経験からは遠ざかるというジレンマがあり、注意が必要だなと感じました。

また、B価値という筆者によるこの世界が内包する価値の整理「美しさとは何か」を考え整理する上でもとても参考になるなと感じました。

このあたりで整理に苦労した第6章も折り返し、次回も引き続き第6章の中盤から後編を取り扱います。

それではまた次の記事で!

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