マスロー「完全なる人間」を図を交えて整理してみる_10

どうもです!アブラハム・H・マスロー氏「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。

最近は旅行やら、仕事のひと段落やらで若干燃え尽き気味で更新が遅くなってしまいました;徐々に更新ペースを戻していければと思います!

前々回から第Ⅲ部「成長と認識」第6章「至高経験における生命の認識」に入り、前回は具体的に至高経験の特徴その経験を人がどのように認識するかというテーマを扱いました。

今回は至高経験における認知の続きと、その認知による自己実現や人生への影響を扱います。

第6章の導入繰り返し

至高経験とは

至高経験とは最高の幸福と充実の瞬間を指し、下記のような瞬間が例示されます。

B愛情の経験、親としての経験、神秘的、大洋的、自然的経験、美的認知、創造的瞬間、治療的あるいは知的洞察、オーガズム経験、特定の身体運動の成就

行動は基本的に目的のための手段となりますが、至高経験はそれ自体が目的となる満足感の源泉となる体験となります。

至高経験に関するアンケート

筆者は至高経験に関する下記質問を中心としたアンケートを実施し、至高経験とはどのような経験どのように認識・体感されるかを調査しています。

あなたの生涯のうちで、最も素晴らしい経験について考えてほしいのです。おそらく、恋愛にひたっている間や、音楽を聴いていて、あるいは書物や絵画によって突然「感動」を受けたり、偉大な創造の場合に経験する最も幸福であった瞬間、恍惚感の瞬間、有頂天の瞬間について考えてほしいのです。はじめにこれを挙げて下さい。それから、このよう激しい瞬間に、あなたはどう感ずるか、ほかのときにあなたが感ずるのとは違っているか、あなたはそのとき、なにか違った人になるかどうか話してください

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p89

上記アンケートを根拠とし、筆者は至高経験について記述します。

至高経験におけるB認識

偉大なるものの認知

筆者は至高経験において、下記のような情緒反応が報告されていることを言及します。

至高経験における情緒反応は、なにか偉大なるものを眼前にするように、経験を前にして、驚異、畏敬、尊敬、謙遜、敬服という特殊な趣を持つ。これは、ときにちょっとした圧倒されることのおそれ(喜ばしいおそれであるが)がみられる。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p111-112

この情緒反応は至高経験における独特な認知方法(B認識)により生まれると考えます。

欠乏動機に基づくD認識では自身に必要な情報のみに着目した認知であるのに対し、B認識では対象を切り取ることなくありのままの全体像を多角的に観察します。

その結果、対象の偉大さや素晴らしさを実感しやすくなり、尊敬や敬服の気持ちに繋がります。

また、B認識では対象への没入・一体感が伴うため、対象と自身との比較をしやすくなり、その結果として偉大な存在からの圧倒によるおそれという感情も生まれやすくなると推測します。

さらに、この情緒反応は「素晴らしさのあまりもう死んでもいい」という特殊な死の考えを含む点も筆者は言及します。

K
K

大きな目標や努力をやり遂げたアーティストやアスリートなどから同様の発言を聞きますね

この「死の考え」は下記感情により生まれると筆者は推測します。

  1. 至高経験から平凡な日常に戻りたくないという抵抗の気持ち
  2. 経験の巨大さに対する自身の無力さに似た感情

①は旅行の終わり頃に感じる寂しさに近いものを感じます。また、②は前述の通り偉大な存在と自分との比較により生まれると考えています。

具体性の認知

具体性の認識と抽象性の認識

次に筆者は至高経験における対象の具体性を認識する側面に言及します。ここでも前述されたB認識、D認識の考え方が基盤となります。

筆者はわれわれの認識を抽象し分類する方法と、具体的で、生で、特殊であるものを鮮やかに捉える方法の二種類に整理し、普段の認識について下記の通り記述します。

われわれの認識(注意、認知、記憶、思考、学習)は大部分、具体的というよりはむしろ抽象的である。すなわち、われわれの認識生活では大抵、分類し、図式化し、等級化し、抽象する。われわれは世界の性質をありのまま認知するというより、むしろ、自分の内面世界の構造を展望しているのである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p113

個人的にこの「内面世界の構造を目指す」という対比表現が印象に残りました。危機的な状況に瞬時に対応するため、また分からなく処理できない不安なものを減らすため、人間は情報の効率的な処理能力を磨いてきました。

その結果としてうまれた副作用が具体的なものを認識する能力の喪失・低下であり、焦点が当たらなかった要素の見落とし情報の誤変換の原因となります。

もちろん、筆者は効率よく情報を処理するために発達した能力である抽象的な認識の存在は否定しません。あくまでその過程における具体性の喪失を問題視します。

筆者は自己実現をする人の特徴として、具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力とが同時に見いだされると主張します。

B認識における具体的に見るとは

ここで個人的に難しいなと感じたのは「具体的に見るとはどういうこと」で、「そのためにはどんな注意が必要か」という点です。

K
K

至高経験をもたらす認識方法を実践したくても、そのコツが分からなければ基本的な抽象性の認識ばかりとなってしまいそうです。

筆者は「具体的に見ること」を理解する上で、対象のすべての側面や特性を、同時または矢継ぎ早に次々と見ることと考えるとわかりやすいと提案します。

また、子ども「無邪気の眼」を持つため自然と具体性の認知が可能であると主張します。子供は多くのものが初体験であり、いずれの側面も同様の重要性を持つので、色んな側面からの観察各特徴の網羅的認識を積極的に進めます。

一方で大人では経験や知識、価値観が固定観念を生み、無邪気な眼は失われがちとなるでしょう。筆者は抽象・命名・配置・比較・関係づけるという情報処理のプロセスを差し控えることが、具体性の認識で必要になることを主張します。

これらの情報処理は普段の習慣から無意識に優先的に機能するため、そのようなプロセスによる見落としがないか注意しながら複数の側面からじっくり観察して対象をあるがままに認識する時間を意識的に持つことが具体性の認知には必要と感じました。

言語化の罠

また、筆者は具体性の認知の上で、言語が障壁となる点を指摘します。

フロイトの定義を引用すると、観察対象の言語化とは無意識、非合理的一次過程から意識、論理的二次過程への変換となり、要素の抽出や比較、関連付けといった抽象化を生む情報処理プロセスが必要となります。

情報処理プロセスを控えなくてはいけないのに加え、意識、論理的な世界では観察者の影響を抑えることは困難となります。

物事を認識するとなると、言語で脳内に処理するイメージを持っていましたが、その処理過程が具体性の認知の妨げとなってしまうのです。筆者はこの言語による障壁について下記の通り主張します。

そこで、知るとわれわれが呼んでいるもの、つまり経験を概念やことばや関係の概念の体系におくことは、ある程度完全に認識するという芽を摘むことになる。

(中略)

とくに、わたくしはことばに直して表現できない事柄を見る能力を強調しなければならない。それを強いて言語化しようとすると、もとのままとは違ったもの、それに似た他のもの、いくぶんか似ているがやはりどこかもとものものとは違ったものに変えてしまう

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p115-116

確かに言語化しようとすると自分の知識や認知の範囲に物事を当てはめる必要があるため、情報の喪失誤変換がどうしても生まれそうです。

最近、物事を分析・思考して他人に説明する能力として言語化する能力が重視されています。

私自身もなぜそう感じたのかであったり、価値観などを根拠を整理して説明できる人に憧れ、感じたものや経験、思考を出来るだけ言葉で整理しようと心掛けていたので、言語化を挟むことで対象の正確な認識から遠ざかる可能性の示唆に衝撃を受けました。

言語化できない部分は素直に認めて、無理に処理しようとせずそのまま受け入れるという姿勢も重要なのかなと感じました。

K
K

人は思考を言語を用いて行うため、言語に依存しない認識というのは訓練しないと中々難しそう・・・。

両極性の解決

筆者は至高経験における認識における両極性の解決として下記のように説明します。

人間の成熟の高い水準にあっては、多くの二分法、両極性、葛藤は融合し、超越し、解決される。自己実現する人間は、利己的であると同時に、利己的でない。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p116

つまり、局所的な観点では対立していて取り扱いが難しいように見える事象も、すべてを網羅する完全な視点では意味や価値を持つ必要な存在であることに気付ける、また一見矛盾している事象も目線を変えれば筋が通ったものと説明可能であるという主張となります。

K
K

自己実現した人は他人に合わせるのではなく自分の充実感のために行動しますが、充実感を得るための行動は利他的となるため、利己的でありながら利己的でない存在という両立が可能となります。

人を悩ませる葛藤や分裂も、思慮や叡智という人間の本質的でポジティブな働きによる産物であり、その人が目指す本来の姿に到達するのに必要な過程と捉えることも可能と筆者は指摘します。

この筆者の考察に対して、過去読んだエーリッヒ・フロム氏の「自由からの逃走」より、「積極的な自由」への挑戦を思い出しました。

自由を謳歌した健全な状態積極的な自由「・・・への自由」を手に入れるには障壁を乗り越える必要があるとフロム氏は主張します。

その障壁を乗り越える上で理想と現実のギャップ等による苦悩や不安が生まれますが、この苦悩や不安は長期的な視点では積極的な自由を手にれるために必要な大事な過程となります。

短期的な視点では苦悩や不安を回避することは良いことと感じますが、長期的、つまりより統合的な視点では個人的健全性を失う原因となってしまいます。

これを本書「完全なる人間」の言葉で再度言い換えると、欠乏のD認識では目先の安心が優先されて挑戦を回避されがちですが、B認識ではその先の真の充実感・個人的健全性のための必要な過程と認識されるため、この挑戦自体にも意味や価値を感じることが可能となります。

このようにB認識では、存在である苦痛/不安充実感/個人的健全性という一見矛盾した存在の統合的な説明が可能となります。

至高経験の神性

至高経験にいる人は、世界を完全に愛するものと認識しているため、悪行すらも咎めず、むしろ楽しみ受け容れる神性がみられると筆者は指摘します。

とくに、普通のときはどれほど悪く見えても、世間や人間を完全に愛すべきものとして、咎めず、思いやりをもちまたたぶん楽しみを持って受け容れるという意味で、神性が見られるのである。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p117

地震を憎んでも仕方がないように、人の悪行も人間の本質の働きの一部として許容し受け止め、更には理論的には楽しむことまでも可能であると筆者は主張します。

K
K

愚かさや理不尽さも含めて人間の一部として愛するというイメージでしょうか。「罪を憎んで人を憎まず」に留まらずさらに愛する、まさに神のような姿勢ですね。

ただ、これは神性という名前の付いている通り、人には実践が難しい境地と感じます。

実際に筆者も、他者の行為が自分に有害である場合に、この態度を取ることは非常に難しいと指摘しています。また、それと同時にその人が成熟しているほどその難易度は下がるとも主張しています。

K
K

器の広さで許せる範囲も広がるというイメージでしょうか?確かに心に余裕があるときは他人の行為に対する許容範囲が広がる経験はありますね。

個別性の認知と現実直視

次の至高経験における認知の特徴は個別性の認知です。

「具体性の認知」で記載した通り、我々は物事を認識するときに経験や知識を基に対象を分類、比較をして情報を処理しようとします。一方で至高経験における認知は個別的で非分類的になる傾向があると筆者は主張します。

対象が大枠の分類の中の1つではなく、世界で唯一無二の存在として認識されるのです。分類の過程で対象は特徴という要素に分解され、その中の際立った情報が優先的に抽出されます。そして分類・比較が完了した後に対象は処理済みの存在として扱われます。

一方で至高経験における唯一無二の存在としての認知では、対象は新しい情報に溢れており観察者の興味は止まりません。そのため、複数の視点や深堀した観察に値する魅力ある存在として際立ちます。

分類や比較は情報判断や素早い意思決定の上で必要なプロセスですが、その反面で見落としを生む原因ともなります。

他や知識との比較・分類ではなく、相手を独立した唯一の存在として観察することで、これまで気づけなかった新たな気づきや魅力に出会えるかもしれないと感じました。

K
K

このブログも本の内容を抽出しているので、本書の魅力を伝えきれません。内容で興味が湧いた方は手に取っていただくことをおススメします!

内外相即

至高経験における認知の最後の特徴は内外相即です。相即2つの物事が密接に関わり融合している状態を指します。

そして内とは人やその内面を、外は世界を指します。つまり、至高経験において個人と世界の認知はお互いに干渉しあい類似した関係になることを指します。

そこでは、内面的なものと外部的なものとの間に、一種の力動的な類似あるいは同形があるようである。つまり、人が世界の本質的生命を見るようになると、同時にかれは自分自身の生命に一段と近接するようになる(中略)。この相互作用の効果は、双方の方向にあるようである。なぜなら、かれがなんらかの理由で自己の生命あるいは完全に近づくようなると、かれはさらに容易に世界におけるB価値を見ることができるようになる。かれが一層統合されるようになると、世界についても一段と調和を見ることができるようになる。

アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p121

人は完成に近づけば近づくほど、世界のすばらしさに気づく能力や余裕が生まれ、また周囲の素晴らしさに気づけば気づくほど、人生の充実感は上がりその人の完成により近づくという循環が生まれます。

この完成とは、自分自身の生命に近接するとある通り、自分の生きたいかつ目指したいような理想に近づくこと、つまり筆者の言うところの自己実現の状況に近いと読み取りました。

「世界と一つになったような感覚」という言葉がありますが、まさにこの内外相即の到達点を指している表現なのかなと感じました。

さて、第6章で紹介される至高経験における認知の特徴は以上となります。

中々歯ごたえのあった第6章ももうあと8ページほど。この8ページにもは大事なポイントが詰まっているので次回の記事で独立して整理したいと思います。

それではまた次の記事で!

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