どうもです!アブラハム・H・マスロー氏の「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。
前回で第Ⅳ部「創造性」、第10章「自己実現する人における創造性」の整理が完了し、取り組みや姿勢により誰でも発揮することが出来る「SA(自己実現)の創造性」という概念と、「SAの創造性」を発揮するために自己受容とそれによる「統合」が必要となることを学びました。
今回からは第Ⅴ部「価値」、第11章「心理学のデータと人間の価値」について整理します。
ここでは当時得られていた重要な知見、研究の動向や検証しなければならない課題が紹介され、筆者の重要な主張も登場します。
それでは早速本題に入りましょう!
自由選択の実験
よい選択者と悪い選択者
筆者はホメオタシス(恒常性維持)の実験(参考文献)で確認された、身体的な欲求に従うことで長年に渡る進化の上で積み上げられた叡智の恩恵を受けられるという事実を紹介します。
眠気を感じたら疲れのサイン、お腹が空いたらエネルギー不足のサイン等、自律的な機能により自分に必要な行動を選択できています。(時代変化に対応できずエネルギー過多やストレス過敏となる不完全な部分もありますが・・・。)
自由な環境では、ある程度自身に好ましい選択を自然に取れるであろうという前提がある中、身体的・精神的に病的な人びとにおける選択が、健全の人と異なる傾向を示すことに筆者は着目します。
本章では人間の価値を考えますが、この病的な人と健全な人の差により、何に価値をあるかという基準・好みが変わる可能性が示唆されます。また、
身体の叡智が完全であり、更にその恩恵を全員が平等に受けるのであれば、人間全般を一括りにして本能が求める欲求・好ましいものを基準に価値を定義できますが、そこまで単純な話ではなさそうです。
この病的な人と健全な人の差を根拠に、人類にとって何が良い(価値がある)かを調査するには健全な人の選択・好み・判断を元とするべきであると筆者は主張します。
これは病的患者を中心とした観察を基盤としたフロイト主義(欠乏の心理学)に対して、健全な人の観察による健康の心理学(人間存在心理学)が必要であると筆者が指摘した第一章の内容と繋がります。
共通の価値と固有の価値
また、人類にとって何が良い(価値がある)かについても、基本的欲求に根付くような全人類に共通する価値と、特定の個人が求める固有の価値に分かれます。
共通する価値が基本的欲求に基づくのであれば、固有の価値は自己実現に関連するものと推測します。
そして固有の価値は、個々人の能力が十分に発揮されて自己を実現することで生まれると筆者は指摘します。
この価値の姿は、その人が持つ個性や能力によって変わることを意味し、例えば、強靭な身体を持つ筋肉自慢の人を例として下記の通り説明します。
筋肉的人間は、自分の筋骨を用いることを好む、というよりも、自己を実現し、調和したこだわりのない満足なはたらきにともなう主観的感情をにひたるために、筋肉を使わなければならない。このような主観的感情は、心理的健康の非常に重要な一面なのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p193
ここでは共通の価値と個々の価値に分けられることと、個々の価値にとっては能力が発揮されて自己実現することが重要となることが読み取れます。
基本的欲求とその階層的配列
次はマスロー氏の名前を有名にした欲求階層説に関わる課題です。
欲求階層説とは、人の欲求は生理的欲求と心理的欲求による基本的欲求と自己実現の欲求に分けられ、これらの欲求や価値が優先順位や強さにより階層のように並べられるという筆者の主張した説です。
ある欲求が満たされれば、一つ上の高次の欲求が生まれ、それが個人にとっての次の目標として設定され、その最終到達地点が自己実現の欲求となります。
筆者は自己実現を人類の目指す究極的な価値の一つの呼称としてとらえています。
人類にとって単一の究極価値、全ての人びとが努めている最も高遠な目標があったかのように見える。これは異なった研究者によって、自己実現、統合性、心理学的健康、個性化、自立性、創造性、生産性とさまざまに呼ばれているけれども、それらはすべて人の可能性を実現するものであり、いわば完全な人間になることで、人のなり得るあらゆる事柄を意味するものという一致を見るのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p194-195
欲求階層説が可能にするもの1:基本的欲求の立ち位置、欲求間の関係性の説明
人は満たされない基本的欲求がある場合、欠乏による動機付けでその欲求解消を個人の最大目標として行動します。そしてそれが達成したときにはより高次な欲求に進み自己実現へと近づきます。
つまり、基本的欲求は個人にとっての直近の最大の目標であると同時に、自己実現という高次な欲求に近づくためのステップとして考えることも可能になります。
マクロの視点での自己実現・完全な人間という人間としての究極的な目標と、ミクロの視点で各個人が追い求める基本的欲求を含んだ欲求・価値との両立することと両者の関係性を欲求階層説により説明できます。
基本的欲求の満足無しにして、自己実現は成し遂げられないため、基本的欲求も自己実現の欲求は両者ともに価値のある欲求であり、基本的欲求を無視して自己実現のみを追求することもできません。
欲求階層説が可能にするもの2:生成と生命という対照的な関係の両立
本書でも筆者は「生成」と「生命」という概念を紹介してきました。
- 生成:個人の成長や発展を指す概念。人が自己実現や能力の向上、個人的満足感の追求などを通じて、自身の可能性を最大限に引き出し、自己表現や才能の開花を追求するプロセス。
- 生命:人生の意味や目的、生きがいに関連する概念。筆者は生命の本質的な目標が自己実現や成長を達成することであると主張し、人が自らの可能性を追求し、内的な成長を経験することで、充実感や幸福感を得られると考えた。
生成はプロセスという動の概念なのに対し、生命は到達点や状態という静の概念という一見対立した存在になると捉えています。
この一見対立した概念も欲求階層説のように構造化することで、生成は生命の本質的な目標に到達するためのプロセスになるという関係性として整理することができます。
そして、生成により自己実現等の本質的な目標を達成した瞬間に経験できるのが至高経験となり、筆者はこれを一時的な絶対的生命と呼びます。
一時的な絶対的生命という考えを取り入れることで、生成という一見到達が難しい状態も絶対的で完全な静的なものではなく、一時的な体験が可能な実現可能な存在としてとらえることができます。
そして、至高体験という到達の瞬間に加え、生命という到達点に近づく生成の過程における成長や発達の実感でも、人は幸福感を得ることができると筆者は主張します。
生成と生命の関係性と、この両者が共に人生に充実感を与える直接の要素となることが欲求階層説によって説明できることになります。
自己実現・成長
最も典型的な人間はそれ自体価値がある
次は自己実現と成長という、人生を充実させる上で本書で非常に重要視されている概念について当時の知見と筆者の考察が紹介されます。
人間は一般的に完全な人間になろうという下記のような自己実現や成長へと向かおうとする傾向を確認していることを筆者は指摘します。
- 人格の統合性
- 自発的な表現性
- 完全な個性と統一性
- 盲目にならずに真実を直視すること
- 創造的になること
- 善なること
- 良い価値と呼ぶもの(平安・親切・勇気・正直・愛情・無欲・善)に向かうこと
一般的に見られる傾向があるため、高度に発展して心理学的に最も健康な個人や一時的に自己実現した平均人を対象にした研究をすることで共通の価値を学ぶことが出来ると筆者は主張します。
人類共通の目標があるのであれば、その内容を知るためにはその目標を最も実現・体現している人(最も本質的に人間らしい典型的な人)を調べればいいという理論であると読み取りました。
典型的な人間の特徴
それでは典型的な人にはどのような特徴が観察されているのでしょうか?筆者は客観的に観察・記述できる特徴として下記を紹介します。
- 明快で有効な現実認知
- 経験に一層よくひらかれていること
- 人格の統合性、全体性、結合の増大
- 自発性、表現性の増大、完全な機能、活力
- ありのままの自己、確かたる同一性、自立性、独自性
- 自己の客観性、分離、超越の増大
- 創造性の回復
- 具体性と抽象性を融合する能力
- 民主的性格構造
- 愛する能力
①、②はB認識にあるような素直でありのままに現実を認識すること、③-⑤は自己実現や至高体験にける要素や特徴というように分類できそうです。
また、⑥は自己実現のみでなく自己超越、⑦、⑧は一見相反する複数の要素を両立・調和させる創造性について、⑨、⑩は人とのかかわりに関する特徴となるでしょうか。
また、自己実現もしくはそれに向かう健全な成長を主観的に実感できる瞬間・きっかけとして下記も紹介します。
- 生活における妙味、幸福、陶酔、静穏、喜び、冷静、責任の感情
- ストレス、不安、問題を取り扱う能力に確信を抱く感情
これらの客観的な特徴、主観的な瞬間は引き続きの調査が必要だが、今後の研究により究明が可能であると筆者は説明します。
模範的人間の行動法則による科学的倫理
筆者は主張したいこととして、自己実現は自己実現する人々が自由に選択しその結果観察されたものであり、観察者の意図とは無関係な自然な価値体系であることを指摘します。
自己実現とそこへ向かおうとする成長欲求は、哲学者や宗教が「~あるべきだ」と人間のあるべきものを提言したものではなく、科学的に実際の行動パターン・結果を観察して発見された実在の存在となります。
筆者はその上で当時の実験や研究・考察による結論を下記の通り展開します。
- 人間の最も深層にある欲求が、それ自体危険でも有害でも邪悪でもないこと
- 上記を鑑みると文化が人間の欲求をコントロールするのは好ましくなく、普遍的な自己実現を育てることこそ健康な文化の役割と考えられる
- 心理的に健康な人においてのみ経験の喜びを感じられ、経験を求める衝動が生まれる(行為・経験が手段ではなくそれ自体が目的になる)、また、他人のための行為と自分のための行為が調和する(他人のための行動が喜びという自身の報酬に紐づけられる)
上記の現象は人が心理学的に病気になるにつれ、存在・調和が難しくなり、本人を悩ます問題にまで発展する。 - 自己実現はごくわずかの人にとって達成された事態(現実態)である。その一方、それ以外の人にとっても目指すべき目標(可能態)として実在する。これは現実態と可能態が共存し、生成と生命の対立が解けることを示す。
ここは筆者の主張が強く反映されている箇所であり、下記のように整理できると考察します。
良い存在になろうとする欲求が人間の本来最も強い欲求である。自己実現した人は利他主義と利己主義が共存するので周囲への貢献度も高くなる。そのため人を抑圧するのではなく、可能性を発揮するのを支援するシステム・環境を作ることが社会にとっても個人にとっても好ましい。
また、心理的に健康な人と病気な人での違いは第一章で触れられた通り、フロイト的心理学の精神分析が病気の人を主に対象としようとしていたのに対し、筆者が生成の心理学として健康な人を対象とした心理学を提唱したきっかけになった重要な着眼点です。
そして自己実現した人はわずかであるかもしれないが、そこを目指そうとするモチベーションと達成する可能性はすべての人に存在している、つまり全ての人に自己実現の可能性があると捉えていたことが読み取れます。
先述の共通の価値と固有の価値と組み合わせると、自己実現により発揮される価値の姿・方法・手段は個人の持つ能力に依存するので固有となりますが、自己実現の欲求自体はすべての人が持つ共通のものであり、能力の発揮が価値を示す条件となる点も同様と整理できるでしょう。
成長と環境
全ての人に自己実現への欲求と可能性があるとしたとき、環境はどのような役割をはたすべきでしょうか?あるべき姿の強制的な刷り込みではなく、元々あるその人の可能性を認め実現する手助けをすることであると筆者は下記の通り主張します。
人間は結局のところ、人間らしく形作られるものでもなければ、型どられるのでもない。人間になるよう教えられるのでもない。環境の役目は、とどのつまり、人が環境の可能性でなく、自己の可能性を実現するのを認め、助けてやるだけである。
(中略)人を愛したり、探求心をもったり、哲学したり、象徴化したり、創造したりする能力を教え込むものではない。というより、萌芽としてあるものを認め、育て、励まし、助けて、ありありとした現実になるようにするのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p204
その人に全て潜在的に揃っているのであれば、外部から無理にインプットする必要はありません。秘めたものに気づく手助け、個性が受容・理解される環境、能力を活用する支援などが個人成長を促す上で重要な要素となります。
また、個別の価値として発揮する方法や形が個人により異なるのであれば、それを他者から教えることも難しいと推測しました。
過去取り扱った心理的安全性も個性や能力を発揮しやすい環境を作るための一つの要素となるでしょう。
以上、第Ⅴ部「価値」、第11章「心理学のデータと人間の価値」の前半となり、筆者の提唱する重要な概念である欲求の階層性や自己実現の欲求が登場しました。
個人的には最後の成長を促進する環境が最も印象に残りました。
強制してもその人のためにならず、相手の個性や自発性を削ぐという逆効果の恐れもあります。社内で教育に携わっていますが押し付けや与えすぎにならないように注意が必要であると学びになりました。
次回は第11章「心理学のデータと人間の価値」の後半で自己訓練・自己実現への道への難易度の高さ等が紹介されます。
それではまた次の記事で!