どうもです!アブラハム・H・マスロー氏の「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。
第7回から第Ⅲ部「成長と認識」に入り、前回、前々回は至高経験の中で得られる同一性という、下記のような視点に分けて整理してきました。
- 統合性
- 完全なる機能
- 自発性
- 独創性
- 世界からの自由
- 無我
- 完成
- ユーモア
- 感謝の念
これまではB認識や至高経験(B経験)で得られるメリットの部分を整理してきましたが、今回はこれまでとは反対の視点で第8章「B認識の危険性」を扱います。
B認識や至高経験にはどのようなリスクがあるのか、筆者の主張を見ていきましょう!
B経験の性質
筆者は自身が提唱した有名な「自己実現」という状態について、必ずしも問題が無い状況を指すわけではないと訂正をするとともに、B認識にもある点で危険が伴う点を指摘します。
自己実現というと、静的で非現実的な問題の無い完璧なものという誤解をされがちですが、自己実現による人格の成熟により新たに向き合う問題も生まれることを筆者は主張します。
人格が成長するからこそ、多くの人が逃避しがちな人間の本質的な難しい問題に挑戦出来るようになるのです。
自己実現は人格の発達と考えることができるが、それはひと、人が未発達からくる欠乏の問題や。人生における神経症の(中略)問題から脱却し、人間生活の「現実」の問題(それは本質的、究極的に人間の問題であり、避けることのできない「実存」の問題で、これに対しては完全な解決はあり得ない)に立ち向かい、これに耐え、これにとりくむことができるようになることである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p147
筆者は自己実現は問題の無い完璧な状況を指すわけではないと訂正しつつも、欠乏欲求に比べるとそれでも問題や悩みの量自体は少なく、多くの至高経験等により喜びも量的・質的に増すという自己実現の素晴らしさを補足します。
そして至高経験同様、これまでメリットを中心に紹介してきたB認識にもいい面のみでなく危険性もあるとし、本章を割いてどのような危険性があるかを説明します。
B認識の危険性
筆者はB認識には下記のような危険性があると指摘します。
- 無為
- 無責任
- 社会的連帯性の欠如
- 不明確な価値判断
- 過度の審美主義
それぞれどのような危険性なのかを見ていきましょう!
無為
まず一つ目の危険性は無為です。これは至高経験で得られる同一性でも触れられた要素です。
自分への影響、利害関係という観点で対象を観察するのがD認識であるのに対し、B認識は対象をあるがままの姿に観察し、自分にとっての価値を評価しません。
そのため、より本質的な部分の理解に繋がるというのがB認識の長所でした。
しかし、筆者はこの無為による認識のみでは、評価・判断というプロセスが抜けているため、意思決定・行為が出来なくなるという問題点を指摘します。
認識がD認識に変わったときにはじめて、行為も決断も判断も処罰も非難も将来に対する計画も可能になるのである。そこで、主な危険は、B認識が行為と相容れないというときに生じることである。だが、われわれは大部分の時間、現世の内に生きているので、行為が必要である。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p149
例えば人は危機的状況に会った時、逃走・闘争反応のような危機への対処行動が必要となります。
もし虎に出会ったとするならば、必要なのはB認識による無為の観察ではなく、自分の命を守るという利益を優先した危機回避のためのD認識となります。
ここまでB認識の利点が強調されてきましたが、誤解しないよう注意が必要なのはD認識も生きるために必要な機能であり、それゆえ自己実現のためにもD認識が必要となる点です。
悪しきものとしてD認識を誤解し遠ざけてしまうと、生活に必要な行動が取れなくなってしまう危険性が生まれます。
人生が行為の積み重ねで成り立つのであれば、自己実現をした人でも人生の多くはD認識で占められ、そこにB認識の時間が含まれるというバランスとなるのではとイメージしました。
無責任
次の危険性は無責任であり、これはB認識や瞑想的理解でも推奨される「あるがままを目指す」ことに起因します。
これは本質的な価値を尊重し、私利私欲で対象を歪めない・無理を強いないという意図によるものと理解しています。
しかし、これが行き過ぎ、行為の禁止・責任の放棄まで及ぶと様々な弊害を生みます。
この辺は老子を始めとした道教を学んでいる時に解釈に苦しみました。あるがままを良しとするなら改善のための努力は不毛なのか?その線引き・整理は現在も課題です。
本書の例を参考にするなら、教師が子供たちのあるがままの姿を尊重するばかり、しつけや指導を悪しきものとするのであれば、教師に本来求められる役割と責任の放棄といえるでしょう。
あるがままの姿の尊重と社会的に求められる姿への成長の促進及びそれによる子供への貢献の間にはディレンマがあり、役割として求められる範囲はどこまでなのか、ここでもD認識による判断/意思決定とそれにより導かれる行為が必要となります。
筆者はこの放任の危険性を下記の通り説明します。
行為の禁止と責任の放棄は、運命論に導く。すなわち、「なるようになるだろう、世界はあるがままである。それは決定されている。わたくしにはどうしようもない」。こういう態度は、ボランティア精神、自由意志の喪失であり、決定論という悪論で、万人の成長や自己実現にとって、たしかに有害なものである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p152
社会的連帯性の欠如
3番目の危険性は社会的連帯性の欠如です。
無為・無責任で放任な姿勢は相手に無関心や愛情の欠落といった印象と共に不安を与えます。
この姿勢は相手に世間も人々も良くないものだという刷り込みになり、相手の本質を発揮させるどころか、自己実現への成長を逆戻りさせる可能性もあると筆者は指摘します。
愛情や所属などの基本的欲求不満による欠乏的欲求の刺激も加わるので、自己実現が遠ざかるという影響もあると感じました。
他人にどこまで干渉するべきなのかについては大きなディレンマがあることを筆者は仏教・道教の考え方を引用しながら説明します。
純粋の瞑想では、(中略)、記述することもできなければ、助力を与えたり、教えたりすることもできない。仏教徒は、他人とは別に自分だけの悟りを得る独覚(緑覚Pratyekabundha)を、悟り得ても他人が開悟されなければ救いが完全でないと感じる菩薩(Bodhisattva)と区別している。自分の自己実現のためには、B認識の私服に背を向けて、他人を助け、教えなければならない、といってよい
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p153
個人の幸福の追求か、他者の支援か、そして支援をするにもどこまでが必要であるべき姿なのか、優先順位や境界線を考え始めると悩みは尽きません。
このディレンマの解決の難しさを下記のように筆者は繰り返し示唆しており、哲学の歴史からも解決が困難なテーマであると感じています。
いかなる回答が与えられようと、少なくともなにがしかの後悔が残るに違いない。自己実現は利己的でなければならない。しかしまた、利己的であってはならない。したがって、選択と相克があるはずであり、また悔恨の可能性もあるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p154
現在の罪は、自分に対し、人生における運命に対し、自分の本性に対し、忠実でない場合に生じるのである。(中略)だが、ここではさらに疑問がおこる。自己に忠実ではあるが、他人に忠実でない場合には、どのような罪がおこるだろうかということである。すでに見てきたように、自己に忠実であることと他人に忠実であることは、往々にして本質的に、必然的に相容れないと考えられる。どちらをとるか選択が可能でもあり、必要でもある。しかもその選択が、全く満足なものであることは稀である。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p153-154
解決するのは難しいディレンマですが、人がどう生きるべきかという疑問を考える上で個人と他者の優先順位や境界は重要な軸となると考えています。
意識的にか無意識にかは置いといて、それぞれの利己と利他の最適解のバランスを追い求め続けるテーマなのだと感じました。
不明確な価値判断
相反する役割のディレンマ
B認識の4番目の危険性は不明確な価値判断であり、筆者は下記のように説明します。
B認識は、無差別的受容に導き、日常の価値を不明瞭にし、眼識を失わせ、寛大すぎる結果になる。これは、もっぱら自己の生命の見地から見た場合には、人はすべてそれ自体の性質において完全とみられるからである。そこでは、評価したり、非難したり、判断したり、不承認であったり、批判したり、比較することは、すべて適用の余地がなく見当外れである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p155
B認識では対象を評価せずに、そのものの個性を尊重したありのままの存在として認識します。これは全てのもののありのままの姿で受け入れる無差別的受容となります。
これは治療者や恋人、教師、両親、友人には必要な要素である一方、行政官や管理者、警官という評価や判断をその役割に含む職業にとっては相対する要素となり、矛盾したよ2つの対人態度の選択というディレンマを強いられることになるます。
そして実際には、ほとんどすべての人は様々な機会で無差別的受容を活かせる「治療者」にも、無差別的受容と相反する「警官」にもなる必要があり、双方の役割を全うしようとする人ほどこのディレンマに悩むことになると筆者は指摘します。
相反する機能の両立
そしてその中で自己実現した人はこのディレンマをうまく解消し、寛容的でありながら言うべき点は伝えるという相反しそうな二つの機能をうまく両立していると説明します。
調査したかぎりでの自己実現する人々は、一般に二つの機能をうまく結びつけることに成功しているのであって、多くの場合に温情的で理解があるが、やはり平均人よりも不正に対する憤りの感情を持つことができるのである。自己実現する人々や健康な大学生は、正当な憤りや不賛成を平均人以上に心からきっぱりと表明するという事実を示す資料もある。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p156
この二つの姿勢の両立は世の中で最も得をしやすいのは自分の利益にも関心を持つギバーであるという実験結果と、基本は利他で接し臨機応変に利己機能を発揮するという観点で関連があると感じました。
人は、人からものを貰おうとする傾向が強い人をテイカー(Taker)、人にものを与えようとする傾向が強い人をギバー(Giver)、損得のバランスを取ろうとするマッチャー(Machers)に分類されるといわれます。
一見この中だとテイカーやマッチャーが得をしそうなのですが、最終的には自分の利益にも関心を持つギバーが得をするという結果が報告されています。
一方自分の利益に関する関心がないギバーは自分のエネルギーをすべて他者に捧げて燃え尽きてしまった自己犠牲型のギバーであるという点も興味深いです。寛容のみではなく主張する姿勢の両立の重要性が伺えます。
ギバーとテイカーに関しては、心理学者グラント氏のTED Talkがありますので、興味がある方はそちらも是非ご参照ください!
あとはどこまで現実世界に単純に適応できるかは注意が必要ですが、基本は協力して裏切られたら制裁を与え、また協力できそうなら協力に戻るという「しっぺ返し理論」との関連もありそうです。
基本的には相手を受容する、その一方でその人のために必要な情報を提供したり指摘すべき点は伝えるという二つの機能の使い分けがディレンマの解消には必要となると読み取りました。
その人にとっての「完全なもの」とは?
そして筆者はB認識でみられる対象を「完全なもの」として認識する上での「完全」の解釈について補足します。
この解釈は二つの機能のどちらを発揮すべきかを判断する上で重要となります。
ここでもB認識とD認識という観点で「完全」にも二つの意味を持っているのです。
欠乏的なD認識における「完全」とは、その言葉通り不足や問題が全くないことを指しており、実現は不可能であるため、必然的に誤った認知や幻想を含んでいると筆者は指摘します。
一方でB認識における「完全」とは全体をありのままに認知し、しかもその人となりをすべて受け入れることを指していると筆者は説明します。
これは人には欠点もあるのが自然な姿であり、その欠点も含めてその人であることを受け入れる姿勢であると理解しました。
その上でその人にとって必要な点を補う支援をするという評価や判断、それに伴う行動も必要になりますし、
もちろん、相手の人が目指すものが何なのかという本人の主張を傾聴する姿勢が欠かせません。
そしてB認識者と被認識者間でこの定義について齟齬があると、被認識者のD認識における不完全な自分という自覚に対してのギャップから重圧を感じ、コミュニケーションの問題を生じるリスクがある点を筆者は注意喚起します。
過度の審美主義
最後に紹介される危険性は「過度の審美主義」です。これは芸術的見方が過剰すると現実社会や道徳との対立が発生する危険性となります。
人生に対する芸術的見方は、実践的、道徳的反応と根本的に対立することが多い(様式と内容との古くからの対立)。醜いことを美しく描写するのが一つの可能性である。いま一つの可能性は真、善、美でさえ、不格好で非芸術的に呈示されることである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p158
ここは若干解釈が難しいと感じました。描写の例としては犯罪を取り扱う作品は多くあります。その中でも人の本質的な性質や悪癖を上手く組み込んで表現しているものが名作として評価されると考えます。
B認識者は人間の醜い部分も含めた受容や芸術的観察力より、このような作品の素晴らしさを認識しやすいですが、その称賛が行き過ぎると中身の犯罪の称賛・肯定ともとらえられ、道徳的な視点からの逸脱をまねきかねません。
そのような名作の出現や模倣犯の登場の度に、どこまでの表現が適切かという議論が世界的にされてきており、過度の審美眼はある意味最も身近で感じやすいB認識の危険性かもしれません。
この過度の審美眼はB認識による芸術的な視点は所属する大衆世界の反応に注意を払う責任があるという筆者の指摘であると解釈しました。
経験上の発見
B認識の危険性を紹介した後、筆者は日常生活におけるB認識の割合について言及します。
至高経験を持ち調査を受けた人々は平均の人より、B認識や純粋瞑想や理解を得る機会がはるかに多かったが、誰でも一時的には至高経験を得られる可能性があるため、DかBかの二元論ではなく程度の問題である点を指摘します。
調査を受けた人々や自己実現をする人々は決して常にB認識で過ごしているわけではないのです。最も完全な人々でも多くの時間は日常生活の中で暮らしており、自己実現する人々であってもB認識や至高経験は例外的な経験であると筆者は考察します。
常にB認識でないからこそ、B認識とD認識の適材適所の使い分けが重要となり、適切なバランスでの両立によりB認識の危険性により生まれる各ディレンマを解消出来ると解釈しました。
終わりに
以上、第8章「B認識の危険性」でした。
B認識のみでは生活が成り立たなくなってしまうこと、D認識も自己実現に必要、むしろ自己実現者でも大部分はD認識を用いていること、そして紹介された危険性に注意して、場面に応じて適切な姿勢と認識の選択をする必要性を学べました。
次回は第9章「概括されることによる抵抗」で、要点に絞って一括りにされて個性を無視されたと感じた時の反応を見ていきます。
それではまた次の記事で!