どうもです!アブラハム・H・マスロー氏の「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。
前回は本題前の前提として、当時注目されていた実存主義という哲学を心理学にどのように活かせるかを整理した第2章を整理しました。
今回は第三章「欠乏動機と成長動機」について整理します。章は第Ⅱ部「成長と動機」に移り、内容も本題に入ります!
第三章は本能的欲求を充足しようとする欠乏動機と、当時注目を集め始めていたより良く生きるための成長動機を紹介し、両者の違いを整理する章となります。
それでは早速内容に入っていきましょう!
欠乏動機と成長動機
欠乏動機とは
ある欲望が満たされないことを欲求と呼び、栄養が不足している時に体が不調を示すのと同様に、満足が欠乏し欲求状態が継続することは多くの神経症の原因となることを筆者は指摘します。
筆者は健康のために満たされなければならない欲求を、基本的あるいは本能的欲求と呼び、満たされない欠乏を埋めようとする欠乏動機が生まれると説明します。
ここでいう欲求の対象は欲求階層説の低次の欲求にあたり、安全や愛情、所属、名誉などが挙げられ、これらの欠乏は神経症等の病気を引き起こす原因となります。
成長動機とは
一方で成長動機は自己完成・自己実現への衝動を指し、主に欲求が満たされ欠乏を克服した健康的な人間に生じます。筆者は成長動機について下記の通り記述します。
動機の状態に関するかぎり、健康な人びとは、安全、所属、尊敬、自尊心に対する基本的欲求を十分に満たしている。そこで、第一に自己実現(可能性、能力、才能の絶えざる実現として、使命<中略>の達成として、個人みずからの本性の完全な知識や受容として、人格内の一致、統合、共同動作へと向かう絶え間ない傾向として規定された)への傾向により動機づけられるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p31
成長動機は自己実現に向かう原動力となる衝動であり、自己実現とは能力や才能の発揮による個人の可能性の最大化、自己認識した役割の完遂、自分というパーソナリティの確立と確立への進歩を指していることが上記のの記述より読み取れます。
基本的欲求が満たされてはじめて、より高次な自己実現の欲求を認識でき、成長動機が示される上での土台となることも筆者は主張します。自己実現へ到達する上で、基本的欲求は否定されず、共存できることが示唆されます。
欲求や欲望を悪とする傾向の強かった考え方と、基本的欲求の充足も自己実現のために必要とする筆者の主張との違いが見て取れます。
その他欠乏状態と成長動機に関する筆者の主な定義をまとめてみます。
欠乏動機を主体とした動機付けと、欠乏動機が満たされた健康な人による成長動機を主体とした動機付けの間の違いに着目して筆者は議論を進めます。
欠乏動機と成長動機との相違
衝動に対する態度:衝動を否定するか、認めるか
筆者はまず古今の学説の人の衝動や動機への否定的な態度に着目し、一部を事実と認めつつもすべての衝動・動機が厄介なものとは言えないことを説明します。
実際のところ、動機に関する古今の学説はいずれも、欲求、衝迫、動機づけられた状態を、一般に取り除くべき、なにか困らせじらせる、不快で望ましくないものと考えている。動機づけられた行動、目標追求行動、完成反応は、みなこれらの不快をとりしずめようとする技術である。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p34
もし人に基本的欲求に基づく欠乏動機しか存在しない場合、この否定的な態度は概ね正しいことを筆者は認めます。
例えば愛に飢えての衝動や欲求が様々な問題を起こす事例はフィクション・ノンフィクション問わず想像に容易いですよね。
満たされない気持ちが問題を起こすのであれば、厄介者としてそれを除去、否定、回避しようとするのは当然の反応といえます。
一方で筆者はこの欠乏動機においても、好ましい経験を呼び起こす原動力となるため、全てを否定するのは適切ではないと主張します。
しかし実際は、これらの欠乏欲求についてさえ、実例は大げさで誤っている。もしa.欲求に対する過去経験が好ましいもので、b.現在ならびに将来に満足が期待されるものであれば、欲求は受け入れられ、楽しむことができるし、またすすんで意識に呼びおこされるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p35
衝動が問題となるのは主に欲求の暴走により過度な反応を引き起こす時です。適切な範囲であれば問題は起きず、むしろ望ましい体験を生み出す原動力となります。
例えば、愛情への欲求も適切な範囲であれば良好な人間関係や家族形成の源となります。愛情への欲求をすべて否定してしまっては孤独・孤立という望ましくない結果を生むでしょう。
成長動機に着目すると更に話は変わります。人が成長し才能や創造性を発揮しようとするのは望ましい幸福な体験といえます。
そのため成長動機という観点では、より成長したい、自分の能力や可能性を発揮したいという欲求は否定するべきでなく、むしろ推奨することが適切と考えられるでしょう。
動機の源泉が自己実現への欲求単体ではなく、承認等の基本的欲求が混ざっており、方法と目的の逆転が起きていないかという注意も必要とは個人的に思いますが。
成長を目指す過程で目標とのギャップ等の緊張が生まれることもありますが、これは喜ばしい緊張ということができ、動機や欲求をすべて否定する姿勢は適切ではないことが示唆されます。
満足の結果における差異
次に筆者は古今の学説で欲求が否定される背景に着目します。これは厄介な欲求から解放されて、緊張が取り除かれた状況を理想とする考え方によります。
緊張を人生で望ましくないものと仮定すると、緊張を除去のためにその原因となる欲求を否定し、停止した無欲の状況が理想という思想にたどり着きます。
しかし、完全に欲が無く停止して緊張の無い状況とは死に近い状態といえ、本当に好ましい存在なのかという疑問が浮かびます。
このような状況では生涯を通じた長期的な目標や方針という観点が考慮されておらず、生きる意味や発展の可能性が失われてしまうことを筆者は指摘します。
過度な緊張・ストレスは不調の原因となるため回避する必要がありますが、成長や集中力を高めるためには適度の緊張感が必要なのもまた事実です。
筆者はさらに当時の有名な心理学者のオルポートによる人間における長期的な視点と目標の重要性に関する主張を下記の通り引用し、自身の主張を補強します。
欠乏動機が実際、緊張の解消と平衡の回復を求めるものであること、一方、成長動機は遠くの往々にして到達できない目標のために緊張を保つもので、その意味で、人間と動物の生成は区別され、また大人の生成と子どものそれとは分けられねばならない
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p39
特に筆者の欲求階層説では、低次の欲求の満足が高次の欲求を生み、自己実現という成長や人生の意味をもたらす欲求に最終的に繋がるため、欠乏動機も含め、欲求や動機の否定は正しい姿勢と言えないというのが筆者の主張になります。
さらに満足がゴールとなる欠乏動機と比較しながら成長動機に着目すると、満足しても欲求はとどまらず、むしろより成長したいという気持ちを増幅して更なる高みを目指そうとする点で違いがあることが分かります。
欠乏動機に囚われている人は欲求の満足の瞬間にのみ満たされるのに対し、成長動機を源泉にする人は長期的な目標に向かって満足感を得ながら進み続けることが可能となります。
この満足を得られる瞬間が類似する要素として、筆者は目標追求活動についても着目します。
活動は、その楽しみによりその活動自体が目的となる場合と、活動という手段により得られた満足が目的となる場合に大きく分けることが出来ます。
同じ芸術活動でも、試行錯誤や創造活動で楽しみを得られる場合は前者の目的的な活動、名誉やお金のみが目的となる場合は後者の手段的な活動に分類できます。
手段的な活動は目的となる満足に到達しない場合、その活動は失敗となり価値を失います。この活動を主とする場合、人は達成やクライマックスの瞬間にしか喜びを感じられません。
その一方で、目的的活動では、その活動自体が楽しみとなるため、その結果に寄らず充実感を得ることが出来ます。
基礎的欲求を満足し自己実現への成長欲求を源泉とする人は、欠乏により煩わせられうこともなく行動そのものへ集中する余裕が生まれるため、目的的活動を楽しむ準備・能力が備わっていることを筆者は主張します。
満足による恩恵と快楽の質的差異
動機の種類により、満足した時に得られる恩恵も異なります。
欠乏動機はその定義通り、満足により病気を回避できるのに対し、成長動機を満足することで積極的健康を達成できると筆者は主張します。
ここで筆者は完全な定義は難しいと断ったうえで、臨床での観察において、欠乏動機の満足は欲求不満という脅威からの脱出という防衛的な反応であるのに対し、成長動機は困難や完全への挑戦という主体的な反応であるという傾向の違いがあると説明します。
また、得られる快楽という観点においても、成長にともなう快楽は欲求と満足感を増幅させながら永続的に前進し続けるのに対し、欠乏動機では欠乏による緊張が喪失することによる気休め的な快楽で直ぐに消失してしまう不安定なものとなることを指摘します。
より満足感と充実感に満ちたより良い人生を達成するには、欠乏による緊張からの解放のみでは充実感は限定的で継続性が無く不足しており、そこから成長動機による自己実現の追求が必要であると筆者が考えていることが読み取れます。
目標の性質の違い
これまでの記載から目標についても検討してみると、欠乏動機に対しては欠乏の充足という目的が明確に設定され、満足感や快感を得られるのはその目的に到達した瞬間のみとなります。
一方で、成長には終局が無く連続的に発展するという性質があります。そのため、成長動機では目標の性質は異なり、成長に向けた活動自体が目的となります。
また、共通性と個性という観点でも性質の違いが確認できます。欠乏欲求は人類すべてで共通であると同時に、一部は他の生物でも見られる没個性的な欲求となります。
その一方で自己実現への欲求の中身や何を目指しているかという方向性は個人により異なるため、その目標にも個性が反映されるという違いがあります。
筆者は人は共通の基本的な欲求を満たすことが出来て、初めて個性の発揮という段階に進むことができると主張します。
さらに、自己実現への段階に進むことで発達の原動力が外部ではなく内面から生み出されるようになるという興味深い特徴を補足します。
これはまさに実際の個性がはじまろうとする出発点である。なぜなら、ひとたびこれらの基本的、生物学的規模の必要性がみたされると、(中略)人びとは自己の個人的目的にこれらの必要物を用い、自己流のかたちで独自の発達をとげはじめるからである。非常に意味深いことであるが、発達は、それからは外部によるよりも、むしろ内面により決定されるようになるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p42
ここまでの整理として、得られる満足感や行動や目標の特徴について、欠乏動機と成長動機の主な違いを下記の通りピックアップしてみました。
ここまでが第三章「欠乏動機と成長動機」の前半となります。次回も引き続き欠乏動機と成長動機の相違について、主に環境や周囲の人との関わり方という観点で整理を続けます。
それではまた次の記事で!