「自由からの逃走」を図を交えて整理してみる-読書日記_11

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」(東京創元社)についての読書日記、今回はいよいよ最終章第七章「自由とデモクラシー」についてです。

中世から始まった自由に関するテーマも遂に現代に入り、積極的な自由をどのように達成するかという実践的な内容にも入ります。

今回はその前半部分として、現代で我々の個性や独創的な思考がどのように妨害されえるかを見ていきます。

自分は本当に自分が求めているもののために生きてるのか?という点が今回の重要なテーマとなります。

過去記事はこちら: 背景情報の整理第一章: 自由-心理学的問題か? 第二章:個人の解放と自由の多様性

第三章 宗教改革時代の自由 : 前半後半第四章:近代人における自由の二面性、第五章 逃避のメカニズム:前編中編(権威主義)後編(破壊性、機械的画一性) 第六章 ナチズムの心理 前半後半

個性の幻影

地域や環境、文化による差はまだありますが、現代の我々は過去と比較して相対的に自由な発想や活動ができる時代を生きているといえます。

職業も基本的に自由に選択でき、居住地や結婚相手も自分の意思で選択することができます。

筆者は「このような環境に対して得られた自由個性の確立という本質的な成果に繋がっているか」という点を問題提起します。

そしてわれわれはこの自由こそ、ほとんど自動的にわれわれの個性を保証するものであると考えている。しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある。外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。われわれはその目標を達成したであろうか。

自由からの逃走 p266-267

ただ表面的な自由が与えられているだけではなく、積極的な自由として活用され人々の幸福につながっているかという点が、真の自由の有無という観点で重要となります。

筆者はその中でのポイントを「自分の思想をもつこと」であると主張します。これまでの章では独創的な思想と呼ばれていました。

第四章で整理した通り自由には二面性があり、社会には積極的な自由を妨害する障壁が存在します。

積極的な自由がそのような障壁に阻害されると、人々は第五章(前編中編(権威主義)後編(破壊性、機械的画一性))にあるような逃避行動へ向かいます。

本章前半では現代のいたるところに潜む機械的画一性への衝動について、例示を交えて整理されます。

この機械的画一性は知らず知らずの内に独創的な思考能力を奪うことで個性の発揮を妨害し、積極的な自由から人々を遠ざけます。

独創的な思考とは

自由が活用されているかという点で、「自分の思想をもつこと」を重要なポイントと筆者は主張します。

現代の機械的画一性を例示する前に、独創的な自分の思想とは何かを再度説明します。

独創的とは、くりかえしていえば、ある考えが以前にだれか他人によって考えられなかったということではなく、それがその個人のなかではじまっているということ、すなわちその考えが自分自身の活動の結果であり、その身でかれの思想であるということを意味する。

自由からの逃走 p268

独創的な思考は奇抜なアイディアではなく、自然の好奇心や興味による自発的な精神活動に基づいているかが重要となることを筆者は指摘します。

そのためこの自発的な精神活動が成長の過程で妨げられずに、尊重される環境にあるということが積極的な自由の実現を後押しする条件となります。

ここからは自発的な精神活動がどのような機械的画一性により障壁されるかの例示を整理していきます。

現代文化のあらゆる側面で機械的画一性は促進され、その影響は子供への最初の訓練から始まります。

現代社会における画一性の促進要素、妨害される感情と思想における「独創性」

上から与えられた願望による敵意と反抗心の排除

最初の例示は敵意と嫌悪の抑制です。

教育開始時には親や先生の指示に従うことが原則として教え込まれます。

年長者の指示は、子供たちの自発的な行動を禁止・抑制します。

指示の意図には子供たちの安全を思ったものもあるでしょうし、単純な効率性のためのものもあるでしょう。


特に集団的な教育は指示に従わず全員が自由奔放な状況では成立しませんし、指示の意図を逐一説明するよりも「指示だから従わなければいけない」というルールを設けたほうが指導者の負担は軽くなります。

この指示は子供たちの意思を阻害するものなので、敵意や反抗心が芽生えます。

しかし生活のコントロールや指導権を持つ大人に勝つことは叶わず、敵意や反抗心を放棄した服従を経験することとなります。

また、円滑な社会生活のために社交辞令やお世辞という偽の感情の表現方法まで教育されます。

そして、相手の素性や相性に関わらず敵意や反抗心を捨てて、「皆と仲良くする」ように指導されます。

これらは社会で平和に生きるためには有効な手段の習得につながりますが、自発的な感情や判断の放棄を強いるという側面を持ちます。

社会で抑制される感情

自発的で精神的な活動には素直に芽生えた感情が重要となります。

感情好奇心動機を生み、創造的な活動を生む源泉となります。

しかし現代社会では感情を示すことが一種のタブーとなってしまっていることを筆者は指摘します。

われわれの社会においては、感情は一般に元気を失っている。どのような創造的思考も-他のどのような創造的活動と同じように-感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的」とは、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。この基準を受けいれたため、個人は非常に弱くなった。

自由からの逃走 p270
ちょこっと私見

ここは2020年代になった現代で、特に着目すべき箇所と考えます。

感情的という言葉は筆者の指摘通り、暴力やヒステリックのような悪いイメージが付いており、さらに論理的・理性的にあるべきと感情を抑えた振る舞いが世間から推奨されます。

特に日本社会では謙遜美徳とされるなど、隠すことを求められる感情の種類には喜びなどのポジティブなものも含まれます。

感情に突き動かされて行動することは根本的な解決を遠ざけ新たな問題を呼び込む可能性もあるので、コントロール自体は必要ですが、過度な抑圧独創的な思想の阻害ストレスの原因というネガティブな結果を生むので両者のバランスをとることが重要でしょう。

行動の表現方法を制御することは重要ですが、それは感情を抑圧することを求めるものではないと考えます。

自分の感情を認識するために自身と向き合うことは、自身の興味や関心との出会いを生み、取り除くべき問題取り組みたいと思える自主的な課題の特定に繋がります。

また言葉で感情を伝えるという表現方法も考えられます。この方法であれば理性的な姿勢を保ったまま感情を無視せずに、相手との相互理解を深めることが期待できます。

感情は自発的な精神活動の源泉となるが、周囲からの「感情的」に対する負のイメージにより抑圧される傾向がある

科学によるカテゴライズ

筆者は科学的な発達もこの流れに拍車をかけていると指摘します。感情的な人々は科学的な知見により「神経症」「小児的」と分類されるようになりました。

このような科学的なラベル付けは、他者の主観によるレッテル貼りと比較し、説得力が強い権威的なものとなるため、個人で対抗することは難しくなります

そうなると個人は自身を異常な存在として認識するよう強制されることになり、カテゴライズの根拠となった個人の特徴は異常の原因となり抑圧するべきものとなり、個性と認めて自主的な活動につなげることは難しくなります。

知識の神格化

教育方法についても独創的思考の障壁が例示されます。

これは物事を知れば知るほど賢くなるという迷信によるものであると筆者は指摘します。

詰め込み教育という言葉で現代でも問題点として指摘されていますが、重要なのはインプットではなくインプットした情報をいかに活用するかという点です。

断片的な情報を詰め込む教育は、学生から多くの時間とエネルギーを奪います。

結果として多くのことは知っているが、思考の習慣が無い学生が育てられます。

筆者は下記の通り指摘します。

事実につての知識のない思考は、空虚で架空である。しかし「情報」だけでは、情報のないのと同じように、思考にとっては障害となる。

自由からの逃走 p273

真理の価値の喪失

真理とは個人や社会集団の関心や欲求により探求される主観的なことがらを指します。

真理は人に好奇心をもたらし、知りたいという欲求が人々に考える機会や習慣を与えます。

一方科学の発達により多くのことが実験や検証により証明される時代となりました。その結果科学は力を強めていますが、科学は客観的な事実で構成されるので、主観による真理の追究の意味を相対的に弱めます。


情報の正確性を求める上で科学的な思考が必要となる反面、根拠やデータのない発想や意見は否定される傾向が強まります。討論でも「データは?」「根拠は?」という指摘の前で主観的な意見は無力となります。

このような状況では、人々は思考しようとする意欲を失い、「事実」を登録する機械となると筆者は問題点を表現します。

結果として思考の習慣とともに、独創的な思考も失われることとなります。

問題をぼやかす世界の傾向

現代社会は変化が激しく複雑化した社会で世界の問題に対して、個人の力は無力化しています。

それぞれの分野で専門化もすすみ、専門外の個人が議論検討する隙は無いように感じます。

このような状況では、人々は自分の住む世界の問題でありながら、その問題に対して取り組みコントロールする気力を失い、受動的に専門家や政府等の権威による指示に従うのみの存在となります。

筆者はこのような状況を下記の通り問題視します。

自分の思考能力の自信を失わせることになる。個人は混沌とした多くのデータにとりかこまれながら、無力をかこち、専門家がなにをなすべきか、どこへいくべきかをみつけだすまで、憐れな忍耐力で待ち続けている。

自由からの逃走 p275
ちょこっと私見

本書を読んでいて、確かに世界の問題は格差、環境、エネルギー、食糧、情報保護等々と、実際は前からずっと議論されている明確なものであると感じました。

さらに個人や自分の影響が及ぶ組織や集団でこれらに対応できる範囲に限定して方法を考えれば、現実的に取り組める選択肢が明確化し、取るべき行動をリストへ単純化できるかもしれません。

個人のみの活動では影響の大きさは限られるかもしれませんが、世界の問題との取り組みの姿勢は変わります。

この姿勢の変化は自分の世界への関心を高めながら自発的なつながりを生むことで、独創的な思考をもたらすという副次的な効果も期待できます。

上で取り上げた問題に対して何か具体的な行動を開始することを今年の目標に追加しました。

世界の抽象化・無関心化

例示の最後として、世界の抽象化・無関心化があげられ、メディアによる影響が指摘されます。

テレビやネットから様々な情報を入手できるようになった反面、それらの情報は非常に断片的です。

テレビでは紛争地域のニュースから間髪置かずに明るいテレビコマーシャルが流されます、ネットニュースにおいても、悲劇的な事件のすぐ下に芸能ニュースが羅列されます。

このような環境では人々はそれらの情報を抽象的と感じて現実感が持てなくなり、関心や感情を失います


一つ一つのニュースや情報に深く感情移入していれば、情緒変動のあまりの激しさに消耗してしまうでしょう。

その結果人々は世界で起こっている問題に対して無関心となり、自発的な精神活動も消失し世界からの疎外感を感じることとなります。

現代ではこのように生まれてから成人となって以降も、多様な要因により独創的な思考は阻害されます。

意思における独創性

自分が何をしたいのか知っているか?

ここまで現代で独創性を持つ難しさについて、感情と思考という観点から整理してきました。

次に筆者は意思という観点での独創性を取り上げ、我々の意思と行為の前提となる欲望正確な把握の難しさを主張します。

私たちは自分の欲求を正しく理解し、それに基いた目標に向かって日々の行動を選択して生きていると考えます。

自分が何を求めているかを正しく認識しているかという動機の根底部分を疑うことは滅多にありません

大部分のひとは、この行為の前提、すなわちかれらが自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の欲求している目標が、かれら自身欲しているものであるかどうかということを考えない。

自由からの逃走 p277

自分の欲求を疑うことは、自分の意思や行動の根幹を疑うこととなるため、これまでの人生の意味を揺るがす危険性を生みます。

そのため人々は自身が何を求めているかの確認から恐怖心により遠ざかるようになり、幸せにつながらない偽りの目標に向かっての努力を強いられていたとしてもその事実に気付けません。

気付いたとしても、これまでの自分の行動を否定する危険性につながるため、目をそむけたくなる衝動に襲われます。この場合、無意識に存在する自己矛盾という不安を抱えながら生きていくこととなります。

真実-すなわち近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、自裁には欲すると予想されるものを欲しているにすぎないという真実-を漠然ながら理解できる。

自由からの逃走 p278


Youtubeの「好きなことで、生きていく」というフレーズが印象的だったのは、このような自己矛盾を抱えた人々の潜在的な不安に刺さったかもしれません。

私の興味がその分野に深いためか最近読んだ本でも、自分の幸せにとって何が大事かどうすれば本当の幸せを実現できるかというテーマが取り上げられ、自分の幸せにつながるものは何かを見つめなおす重要性が強調されています。

お金ではなく人生を最大化する9つのルールとは?

・科学的な視点から幸福について考える。3つの幸福とは?: 前半, 後半

「自分が求めるているものは本当に自発的なものか」、「自身の行動や目標は自分の幸福につながっているのか」を確認することは人生を自分のものとして自分らしく生きるために欠かせない一歩となります。

一方でもし人々の欲求が自分自身から生まれたものでないとするのであれば、一体何によって形作られているのでしょうか?

匿名の権威による潜在的な支配

筆者は人々は周囲から与えられた外部からの期待や欲求に従い生きている可能性を示唆します。

この外部からの影響は第五章で紹介された匿名の権威が該当します。

匿名の権威とは常識世論などの他者との同調を求める実体がない現代的な権威となります。

人々は中世から近代にかけて、国家や教会という明確な権威から解放されて自由に生きていると自負していますが、目に見えない新たな権威による支配に気付けません。

現代のステレオタイプな幸せとは何でしょうか?

現代でも良い大学に行き、いい仕事を得て多くの収入を得て、結婚により良好な家庭を築き、良い家や車を持ち、SNSでも映えるような優雅なプライベートを送ることが理想とされ、多くの人はそのような目標に向かって日々努力します。

筆者はそのような目標が自分の自発的な欲求から来たものであるかを問題提起します。


30歳までの与えられた課題をただひたすらこなしていく私の人生も、まさにこのステレオタイプに染まったものでした。そして現在のこのブログを含めた趣味の充実を図る活動も、実は新しい匿名の権威による影響の範疇なのかもしれません。

より多様な生き方が生まれ多様性が声高に叫ばれる現在では、このステレオタイプが弱まってきたという見方もできます。

それでもこの枠から外れる恐怖は未だにしっかりと存在するのではないでしょうか。

他の人と違う道を選択することは孤独感を生み、失敗は選択の誤りによるものではないかという自責による無力感を強めます。

そして第四章で触れられた人間の手段化人生の無意味化、さらに前述した独創的な思想感情という原動力の喪失により、多くの人々はこの恐怖と戦うための力を持てない状況となります。

無意識の内に匿名的権威に支配されているため、独創的な思考による積極的な自由へたどり着けない

弱まる自我の力、他者からの期待への依存

現代社会の環境下で人は他者からの評価をはじめとした匿名の権威に無意識に服従した状態となります。

その結果、人々の自発的な精神活動は失われ、個人の安定の基礎となる自我は衰弱し、安心感を求めるために他者からの期待への順応を強める点を筆者は指摘します。

もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることができたならば、自分の意志に従って自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。

自由からの逃走 p278

これは他者からの期待が行動の指針となり、他者から評価を受けることで安心感を得る状態を指します。

この時自我は弱まっているため、個人のパーソナリティは他者からの評価により構築されます。

結果、パーソナリティの同一性を保つための手段他者からの期待に応えることに依存し、自分の行動の目標が自分本来の欲求から増々乖離する結果となります。

自我の弱まりにより、他者からの期待による個人のパーソナリティへの影響力が強まり依存状態へ

このような状況では独創的な思想は生まれず積極的な自由も実現されず人々は不安に苛まれ続けます。

結果として人はいつか絶望を迎えることになると筆者は主張します。

表面的にみれば、ひとびとは経済生活においても社会生活においても順調にやっているようにみえる。しかもなお、その楽しいみせかけの背後にひそむ根深い不幸をみのがすのは危険であろう。もし生がみたされないためにその意味を失うならば、ひとは絶望するほかない。

自由からの逃走 p282

以上最終章の前半部分を整理してきました。

次回がいよいよ最終回の予定で、積極的な自由を実現するために必要な自発性というテーマに入ります。

どのような人生との向き合い方が積極的な自由に対して重要なのでしょうか?

それではまた次の記事で!

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