どうもです!アブラハム・H・マスロー氏の「完全なる人間-魂のめざすもの」をテーマとして、読書日記をまとめています。
前回より第三章「欠乏動機と成長動機」について整理中で、今回はその後編となります。
前回はマスロー氏の提唱する二つの動機、欠乏動機と成長動機の特徴と得られる満足感や行動や目標の違いに注目して整理しました。
今回は欠乏動機と成長動機の違いの内、主に環境や周囲の人との関わり方という観点で整理を続けます。
それでは早速本題に入りましょう!
欠乏動機と成長動機の違い
環境依存と環境からの独立
欠乏動機と成長動機における違いの一つとして、満足がどのように生み出されるかという点があります。
例えば、欠乏動機の原動力となる安全、所属、愛情、尊厳などの基本的欲求は当人自身で満足させることができないため、他者の存在が必要となります。
そのため、自身の欲求を満足させるためにはその供給源を維持することが重要となり、他人の思惑や目を気にした「他人指向」の傾向が強くなります。
欠乏動機による他者指向は環境にあわせて自身を変化させる適応を強いられた依存状態を生むと筆者は指摘します。
動機が自発的ではなく周囲や相手から与えられるため、自分の本当の欲求との乖離が生まれる原因ともなります。
一方で基本的欲求を満たした自己実現を目指す人は、自身から生まれた内発的な成長動機により動機づけられます。
かれらを支配する決定要因は、もはや基本的に内的なもので、社会的なものでも環境的なものでもない。それらは、かれら自身の精神的本性の法則であり、可能性や能力であり、才能、潜在性、創造的衝動である。自己を知ろうとする欲求であり、ますます統合し、一貫したものになろうとする欲求である。さらにまた、現実の自己や理想の自己、自己の使命、職業、運命を自覚するようになろうとする欲求である。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p43
成長動機を持つ人々を支配するのは環境ではなく、自身からあふれる衝動や欲求であり、環境への依存どころか環境からの相対的な独立を望むと筆者は主張します。
環境から独立することは他者との交流を拒むことを意味するわけではなく、願望や計画の第一決定者が自分自身となることを指しており、このような状況を筆者は心理学的自由と名付けます。
欠乏動機による環境依存状態では、意志決定を他者や環境にあわせる必要がありストレスや不満が生まれる不自由な状態と言えますが、成長動機をもち環境から独立した状態では自分の自由意志で物事を決定できるという違いが生まれます。
人間関係における利害関係の重要性
また、欠乏動機の存在は人との関わり方にも影響を与えます。欠乏動機は満足の供給を他者に依存するため、人間関係を持つ意味も満足を供給してくれるか否かという点が重要になります。
以前本ブログでまとめた「自由からの逃走」の著者フロム氏の言葉を借りるのであれば、「人間の道具化」が起こり、相手の個性ではなく自分に何をもたらすのかという役割的側面を重視するようになります。
「自由からの逃走」を図を交えて整理してみる-読書日記_5このような状況では相手がだれかというよりは、利害関係に基づく手段としての人間関係が形成されやすくなってしまいます。
一方で欠乏の問題から解放され成長動機に基づく人々は、人間関係はそれ自体が目的となり、相手を一人の個人と見ることが可能となると筆者は主張します。
利害関係をもたず、報酬を期待せず、無益、無欲の立場で、他人を独自の、独立した、それ自体目的として-すなわち、道具としてではなく、一個の人間としてみることは、その人が欠乏の満足を求めることが強ければ強いほど、それだけむずかしくなるのである。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p45
これは欠乏による義務ではなく、自身の意思により本当に必要な人間関係のみを選択出来ることも大きいと考えられます。
一緒にいて心地よかったり、相手の個性に惹かれたり、本当に付き合いたい人と親密で相互尊重した人間関係の形成が自然に進んでいくことになります。
自己中心と自己超越、認知における違い
次に筆者は成長志向の人々が持つ、自己あるいは自我に対する複雑な態度を下記のように説明します。
自我の最も強いのは、まさにこの人であるが、かれは最もたやすく自我を忘れ、これを超越する。また最も問題中心的、自己滅却的で、活動に際しては最も自然であり、(中略)集中的で純粋に没頭することができる。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p46
自己実現を目指す人は人格の確立や自己との対話が進んでいるため、自我が確立されていると考えられますが、その自我を忘却し、自分の外部の関心のある問題やテーマに没入できると読み取れます。
このような態度は、欠乏動機と成長動機における認知の仕方に違いを生みます。
経験や文化、願望が生み出す固定概念や偏見などの認知者の性質により、我々は世界を無意識的に歪めて認知しています。
そのため、我々は世界そのものではなく、自ら生みだした理想で幻の世界を見ているという状況に時折陥ります。
一方で欲求に囚われず、自我の忘却も容易な自己実現の人々は、自分の願望を挟まずにありのままの現実を洞察的に認知、理解することが可能であると筆者は主張します。
われわれは現実の具体的世界を見るのであろうか、それとも、世界に投影された我々自身の強調点、動機、期待、抽象化の体系といったものを見るのであろうか。あるいは、これを極めて大雑把にいうと、われわれは見ているのであろうか、それとも盲目であるのか。
アブラハム・H・マスロー「完全なる人間」p52
先日記事を作成した「LISTEN」では相手の話を決めつけて耳を背けたり、聴きたくない情報を退けようとする衝動が人にはあることを学びました。
失われつつある聴く力を取り戻そう!また、「多様性の科学」では、人はコミュニケーション上の不快さを排除するために自分と似た人との交流を好む傾向があったり、エコーチェンバー現象により自分の信じたい情報のみを信じる状態が生まれることを学びました。
多様性を実際に活かすために必要なことは?-読書日記2/2これらの傾向・衝動を生み出す原因として、自信の無さによる自己防衛の本能が挙げられます。
低次的欲求を満足させ、自己実現に向かう人々には、現実の世界をそのまま認識し、苦境や困難な状況も挑戦として前向きに受け入れる姿勢が整っています。
その結果、挑戦を通して成長を積み重ねることができるので、人生がより充実したものとなります。
一方で低次的欲求の欠乏に陥る人々は、欠乏を満たし欲求不満を退けたいという短期的な衝動に駆られています。
目の前の衝動が強くなることは、表面的でもいいので欲求を満たそうと、世界を自分の都合の良いように解釈しようとしてしまい、本質的な解決や成長から遠ざかる原因となります。
結果、人格が確立し自我が強く自信がある人の方が、自我を忘れ世界をありのままに受け入れて成長を目指しやすいという逆説的な仮説が生まれます。
求められる愛情と求められない愛情
第3章の最後に筆者は愛情という観点で欠乏動機によるD愛情と、成長動機を含んだ高次動機論によるB愛情という分類について記述します。
欠乏動機によるD愛情
愛の欲求は欠乏の欲求に分類され、愛情が欠乏すると栄養不足と同様に病気様の状態になると筆者は主張します。
愛情が欠乏した人は、愛情の充足を優先して目的化し、愛情を満足させる源泉を自身の欲求を満たすための手段・道具化する傾向が強くなります。
このような欠乏に基づく愛情をD愛情(欠乏の愛情、愛情欲求、利己的愛情)と筆者は分類します。
成長動機に基づくB愛情
一方で、低次的欲求が満たされた健康的な人びとは、欠乏による衝動が抑えられます。
すると、愛情への執着が無くなるので、自己実現を目指す人々は孤独な冷たい人となるのではという疑問が生まれます。
筆者はこの疑問に対して、愛を受けるのみでなく与えるという別の形での愛情が臨床的観察で確認されていることを紹介します。
これはB愛情(他人の生命のための愛情、求めない愛情、無我の愛情)と呼ばれ、この愛情を示す人々は人に多くの愛を与えることで、愛情のある人と周囲から称されると筆者は主張します。
また、理解を深めるために、B愛情の主な特徴を下記の通り抜粋します。
- B愛情は求められるというより讃えられるものであるから、トラブルの原因にならず常に快いものとなる
- B愛情は決して飽きられず消滅しない。それそのものが目的となる
- B愛情はたがいに独立しており自立的で、利害関係に囚われることが少ない
- B愛情により、人は最も正しく透徹して理解できる。B愛情は人を盲目としない
- B愛情は人に自己像、自己受容を与え、愛する価値の感情を持たせる。結果相手を成長させる
行動による結果ではなく、行動そのものが目的となる点は、フロー体験と類似点がありそうですね。
また、D感情で見られた先述の他者の道具化や認知の歪みは、B感情では見られなくなるという筆者の主張を再確認できます。
B愛情を持つ人は相互理解を深め本質的な人間関係を構築しながら、周囲の人に成長をもたらします。
欲求を埋めるための手段としてのD愛情と、それ自体が至高の体験となり目的となるB愛情では大きな違いがあることが分かります。
以上が第3章の内容となります。この欠乏動機(D)か成長動機(B)かという比較は本書の大きなテーマとなっており、今後も様々な角度から取り上げられます。
次回は第4章「防衛と成長」に入り、我々の成長を促す動機とは何か、一方で成長を妨げる要因は何なのかを見ていきます。
自身も含めて成長を促す環境をつくるために、どのような点に注意を払えばいいかの学びとなりそうですね。
それではまた次の記事で!