エーリッヒ・フロム の「自由からの逃走」(東京創元社)についての読書日記、今回は第五章「逃避のメカニズム」の中編です。
逃避に向かう人々の目的は何なのか、逃避はどのように起きるのか、その結果民衆の性格構造や社会構造にどのような影響がでるかを見ていきましょう。
逃避は「権威主義」、「破壊性」、「機械的同一性」の3種類に分けれており、今回は最もページが割かれている「権威主義」について整理していきます!
過去記事はこちら: 背景情報の整理、第一章: 自由-心理学的問題か? 、 第二章:個人の解放と自由の多様性
第三章 宗教改革時代の自由 : 前半 ・後半、第四章:近代人における自由の二面性、第五章前半
権威主義
権威主義とは
権威主義とは、作り上げられた権威による支配と、その権威に対する服従により特徴づけられた逃避行動となります。
自分の主張を、何らかの権力、威光によって、真理であると断定する立場。また、権威に対して盲目的に服従する態度、および、それに伴う種々の思考様式、行動様式。
精選版 日本国語大辞典 コトバンクより
そしてこの逃避は、人間が独立した自我や自由を捨て、自分に不足しているものを補うために自分以外の存在と一体化しようとする衝動により生まれます。
この一体化により、人々は失われた一次的絆の代償として二次的絆を作り出そうとします。
この絆を求める衝動は服従者のみではなく、支配者側にもみられます。
そのため権威主義的な逃避とは一見、服従しようとする側のみに見られる現象と感じますが、支配しようとする側にもみられる逃避行動となります。
筆者は前者の服従者をマゾヒズム的人間、後者の支配者をサディズム的人間として議論を進めます。
サディズム的人間とマゾヒズム的人間
サディズム的人間(支配者)の特徴
人間の本能に基づく多くを得ようとする欲求から考えると、他者を支配しようという衝動は肯定はできませんが、マゾヒズムと比較して理解しやすい欲求であると考えられます。
サディズム的人間の特徴として重要なのは、他者を支配することで自分の存在の意味と強さを証明しようとする点です。
そのため、支配することは手段ではなく目的となるため、服従者の存在を強く必要とし存在の崩壊を恐れる側面があります。
支持者がいないと権威は保てなくなります。
服従者無しでは自分の存在意義を証明という目的を果たせないためです。
筆者はサディズム的人間のマゾヒズム的人間への愛の形を下記の通り説明します。
かれの掌中にあって頼りない存在と思われるような人間なしには生きていけない。ただこの関係が破れそうな時だけ、愛の感情があらわれる。他のばあいには、サディズム的人間は、かれが支配していると感じている人間だけをきわめてはっきりと「愛し」ている。
自由からの逃走 p164
ここでいう愛は相手への尊厳や独立性が無いため、自発的なつながりに必要な愛とはまた異なるものになります。
マゾヒズム的人間(服従者)の特徴
一方で他者への服従をみせるマゾヒズム的人間の衝動は、自分の自由や存在意義を自ら手放すという点で非合理的に感じます。
マゾヒズム的衝動の狙いは孤独感と無力感への抵抗であり、下記が挙げられます。
- 自分以外の存在と一体化することによる安心感の獲得
- 自分より大きな存在の一部となることによる権威の疑似獲得及び無力感の払拭(虎の威を借りる狐)
- 他の同様の服従者の存在による孤独感の払拭
- 自身の意思決定を委ねることによる人生に対する責任の放棄
- 自己を矮小化することによる自由という重荷からの逃走
筆者はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の記載を引用した後、この衝動について下記の通り説明します。
かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする。マゾヒズムはこの目標の一つの方法である。マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば自由の重荷からのがれることである。
自由からの逃走 p170
また、これらの取り組みは一時的に不安を解消できるかもしれませんが、根本的な解決とはならない点を筆者は指摘します。
個人は表面の悩みをなくすことはできるが、奥深い葛藤や沈黙した不幸を動かすことはできない。
自由からの逃走 p171
サディズムとマゾヒズムの共依存
権威主義的な逃避行動に対するサディズム(支配者)とマゾヒズム(服従者)が期待する恩恵は下記となります。
- サディズム的人間:相手を支配することにより無力感を、服従者を支配下として一体化することで孤独感の忘却を目指す。
- マゾヒズム的人間:強い権威の支配下にはいることで孤独感・無力感から解放され、また決断を相手に丸投げして責任を放棄することで自由の重荷からの逃走を目指す。
この両者はそれぞれ相手の存在により、孤独感・無力感からの解放を目指します。
この関係は相手を不安を解消とする道具として取り扱い、他者を尊重した愛による繋がりではないため、孤独感と無力感を生み出す根本的な問題を解決できません。
そのため、孤独感と無力感による不安は解決されないままとなり、支配と服従という衝動は消えません。
解決方法が他者に依存しているため、不安への恐怖により相手との関係を断ち切ることが難しくなり、両者は互いに依存的な共棲関係となります。
しかし、心理学的には、この二つの傾向は一つの根本的な欲求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れでることである。(中略)他人と共棲的な関係にはいろうとする衝動へかりたてられるのは、自己自身の孤独感に抵抗できないからである。
自由からの逃走 p176
権威主義の種類
また、権威主義の核となる権威の種類については下記の通り整理されます。
- 外的権威:自分の外部に存在する制度や権力者等の具体的な権威
- 理性的権威(教師⇔生徒):同一化をのぞむ模範
- 禁止的権威(所有者⇔奴隷):搾取による利益の相反
- 内的権威:社会的要求から形成された良心による支配
- 匿名の権威:常識、科学、精神の健康、正常性、世論等による暗示のような影響による支配
最もイメージしやすいのは外的権威だと思いますが、それ以外の権威の存在も紹介されています。
内的権威の特徴は、支配が自分の内部からくるため、その強制力は外的権威より冷酷で強い点です。
この内的権威には、成長の中で環境の影響により形成されたこだわりや自分ルールも含まれるでしょう。
このこだわりや自分ルールが自分の幸福につながっていればさほど問題ないのですが、自分を縛る鎖のようにネガティブな存在となっているのであれば注意が必要です。
そして最も注意が必要なのは匿名的な権威です。
人は親からの教育や周囲の意見、広告を含めた報道やマスメディアからの影響を受けて生きています。
これらの影響は無意識のうちに暗示のように人に訴えかけるため、知らず知らずのうちに支配されている恐れがあります。
匿名の権威のばあいには、命令も命令するものも、目に見えないものとなっている。それは目に見えない敵によって砲撃を受けるのに似ている。戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである
自由からの逃走 p186
理性的権威と禁止的権威
個人的に面白いと感じたのは、理性的権威と禁止的権威についてです。
理性的権威は教師と生徒との関係を指し、禁止的権威は所有者と奴隷との関係を指します。
同じ権威による支配となりますが、前者は教育により両者のギャップを少なくすることを目指す一方で、後者は両者のギャップが重要な要素となるため搾取によりこのギャップを大きくすることを目指します。
そのため両者の本質は全く異なります。
教育という名前がついていても、相手を搾取することが目的であれば、それは禁止的権威に分類されます。
指導者と支持者のギャップを大きくしようとしているのか、縮めようとしているのかという見極めが、ある団体もしくは指導者の行動の本質を判断する際の基準に使えるかもしれません。
例えば母体の拡大のみを目的とし、支持者への実際の還元が無いのであれば、その団体の目的は支持者からの服従と搾取の可能性が出てきます。
意図が分からない過大な還元やサービスは、でまかせであるか裏に隠された狙いがあるのでそちらも注意が必要ですが。
力に対する権威主義の特徴
権威主義に見られる力に対する特徴として、下記があげられます。
- 力の絶対視から生まれる無力な人間や制度に対する軽蔑。無力な存在への攻撃、支配の衝動。
- 権威に挑戦し、「上から」のどのような影響にも反感をもつ傾向。(権威への反抗自体が生存目的となる場合。権威に反抗することで自分の力を示そうとする。相手が強いほど自分の存在理由となるため一種の依存関係にある。)
- 人生が自分の意思を超えた力により決定されるという確信。宿命に服従することを好む。
- 力を絶対視し、服従と支配という前提的な共棲関係の中で生きるため平等の概念が無い。
これらの特徴は社会構造にも大きな影響を持ち、支配者による力の行使と拡大、そして服従者の拡大を通して、その権威をさらに拡大する原動力となります。
権威主義が大きくなると帝国主義やファシズムなどの国規模での力による支配がうまれ、その支配の衝動は国外にも広がることとなります。
以上、逃避のメカニズムの中の「権威主義」について整理してみました。
続いて、「破壊性」と「機械的同一性」について次の記事で見ていきましょう!
それではまた次の記事で!
エーリッヒ・フロム の「自由からの逃走」(東京創元社)についての読書日記、今回は第五章「逃避のメカニズム」の中編です。
逃避に向かう人々の目的は何なのか、逃避はどのように起きるのか、その結果民衆の性格構造や社会構造にどのような影響がでるかを見ていきましょう。
逃避は「権威主義」、「破壊性」、「機械的同一性」の3種類に分けれており、今回は最もページが割かれている「権威主義」について整理していきます!
過去記事はこちら: 背景情報の整理、第一章: 自由-心理学的問題か? 、 第二章:個人の解放と自由の多様性
第三章 宗教改革時代の自由 : 前半 ・後半、第四章:近代人における自由の二面性、第五章前半
権威主義
権威主義とは
権威主義とは、作り上げられた権威による支配と、その権威に対する服従により特徴づけられた逃避行動となります。
自分の主張を、何らかの権力、威光によって、真理であると断定する立場。また、権威に対して盲目的に服従する態度、および、それに伴う種々の思考様式、行動様式。
精選版 日本国語大辞典 コトバンクより
そしてこの逃避は、人間が独立した自我や自由を捨て、自分に不足しているものを補うために自分以外の存在と一体化しようとする衝動により生まれます。
この一体化により、人々は失われた一次的絆の代償として二次的絆を作り出そうとします。
この絆を求める衝動は服従者のみではなく、支配者側にもみられます。
そのため権威主義的な逃避とは一見、服従しようとする側のみに見られる現象と感じますが、支配しようとする側にもみられる逃避行動となります。
筆者は前者の服従者をマゾヒズム的人間、後者の支配者をサディズム的人間として議論を進めます。
サディズム的人間とマゾヒズム的人間
サディズム的人間(支配者)の特徴
人間の本能に基づく多くを得ようとする欲求から考えると、他者を支配しようという衝動は肯定はできませんが、マゾヒズムと比較して理解しやすい欲求であると考えられます。
サディズム的人間の特徴として重要なのは、他者を支配することで自分の存在の意味と強さを証明しようとする点です。
そのため、支配することは手段ではなく目的となるため、服従者の存在を強く必要とし存在の崩壊を恐れる側面があります。
支持者がいないと権威は保てなくなります。
服従者無しでは自分の存在意義を証明という目的を果たせないためです。
筆者はサディズム的人間のマゾヒズム的人間への愛の形を下記の通り説明します。
かれの掌中にあって頼りない存在と思われるような人間なしには生きていけない。ただこの関係が破れそうな時だけ、愛の感情があらわれる。他のばあいには、サディズム的人間は、かれが支配していると感じている人間だけをきわめてはっきりと「愛し」ている。
自由からの逃走 p164
ここでいう愛は相手への尊厳や独立性が無いため、自発的なつながりに必要な愛とはまた異なるものになります。
マゾヒズム的人間(服従者)の特徴
一方で他者への服従をみせるマゾヒズム的人間の衝動は、自分の自由や存在意義を自ら手放すという点で非合理的に感じます。
マゾヒズム的衝動の狙いは孤独感と無力感への抵抗であり、下記が挙げられます。
- 自分以外の存在と一体化することによる安心感の獲得
- 自分より大きな存在の一部となることによる権威の疑似獲得及び無力感の払拭(虎の威を借りる狐)
- 他の同様の服従者の存在による孤独感の払拭
- 自身の意思決定を委ねることによる人生に対する責任の放棄
- 自己を矮小化することによる自由という重荷からの逃走
筆者はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の記載を引用した後、この衝動について下記の通り説明します。
かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする。マゾヒズムはこの目標の一つの方法である。マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば自由の重荷からのがれることである。
自由からの逃走 p170
また、これらの取り組みは一時的に不安を解消できるかもしれませんが、根本的な解決とはならない点を筆者は指摘します。
個人は表面の悩みをなくすことはできるが、奥深い葛藤や沈黙した不幸を動かすことはできない。
自由からの逃走 p171
サディズムとマゾヒズムの共依存
権威主義的な逃避行動に対するサディズム(支配者)とマゾヒズム(服従者)が期待する恩恵は下記となります。
- サディズム的人間:相手を支配することにより無力感を、服従者を支配下として一体化することで孤独感の忘却を目指す。
- マゾヒズム的人間:強い権威の支配下にはいることで孤独感・無力感から解放され、また決断を相手に丸投げして責任を放棄することで自由の重荷からの逃走を目指す。
この両者はそれぞれ相手の存在により、孤独感・無力感からの解放を目指します。
この関係は相手を不安を解消とする道具として取り扱い、他者を尊重した愛による繋がりではないため、孤独感と無力感を生み出す根本的な問題を解決できません。
そのため、孤独感と無力感による不安は解決されないままとなり、支配と服従という衝動は消えません。
解決方法が他者に依存しているため、不安への恐怖により相手との関係を断ち切ることが難しくなり、両者は互いに依存的な共棲関係となります。
しかし、心理学的には、この二つの傾向は一つの根本的な欲求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点とから逃れでることである。(中略)他人と共棲的な関係にはいろうとする衝動へかりたてられるのは、自己自身の孤独感に抵抗できないからである。
自由からの逃走 p176
権威主義の種類
また、権威主義の核となる権威の種類については下記の通り整理されます。
- 外的権威:自分の外部に存在する制度や権力者等の具体的な権威
- 理性的権威(教師⇔生徒):同一化をのぞむ模範
- 禁止的権威(所有者⇔奴隷):搾取による利益の相反
- 内的権威:社会的要求から形成された良心による支配
- 匿名の権威:常識、科学、精神の健康、正常性、世論等による暗示のような影響による支配
最もイメージしやすいのは外的権威だと思いますが、それ以外の権威の存在も紹介されています。
内的権威の特徴は、支配が自分の内部からくるため、その強制力は外的権威より冷酷で強い点です。
この内的権威には、成長の中で環境の影響により形成されたこだわりや自分ルールも含まれるでしょう。
このこだわりや自分ルールが自分の幸福につながっていればさほど問題ないのですが、自分を縛る鎖のようにネガティブな存在となっているのであれば注意が必要です。
そして最も注意が必要なのは匿名的な権威です。
人は親からの教育や周囲の意見、広告を含めた報道やマスメディアからの影響を受けて生きています。
これらの影響は無意識のうちに暗示のように人に訴えかけるため、知らず知らずのうちに支配されている恐れがあります。
匿名の権威のばあいには、命令も命令するものも、目に見えないものとなっている。それは目に見えない敵によって砲撃を受けるのに似ている。戦うべきなにびとも、またなにものも存在しないのである
自由からの逃走 p186
理性的権威と禁止的権威
個人的に面白いと感じたのは、理性的権威と禁止的権威についてです。
理性的権威は教師と生徒との関係を指し、禁止的権威は所有者と奴隷との関係を指します。
同じ権威による支配となりますが、前者は教育により両者のギャップを少なくすることを目指す一方で、後者は両者のギャップが重要な要素となるため搾取によりこのギャップを大きくすることを目指します。
そのため両者の本質は全く異なります。
教育という名前がついていても、相手を搾取することが目的であれば、それは禁止的権威に分類されます。
指導者と支持者のギャップを大きくしようとしているのか、縮めようとしているのかという見極めが、ある団体もしくは指導者の行動の本質を判断する際の基準に使えるかもしれません。
例えば母体の拡大のみを目的とし、支持者への実際の還元が無いのであれば、その団体の目的は支持者からの服従と搾取の可能性が出てきます。
意図が分からない過大な還元やサービスは、でまかせであるか裏に隠された狙いがあるのでそちらも注意が必要ですが。
力に対する権威主義の特徴
権威主義に見られる力に対する特徴として、下記があげられます。
- 力の絶対視から生まれる無力な人間や制度に対する軽蔑。無力な存在への攻撃、支配の衝動。
- 権威に挑戦し、「上から」のどのような影響にも反感をもつ傾向。(権威への反抗自体が生存目的となる場合。権威に反抗することで自分の力を示そうとする。相手が強いほど自分の存在理由となるため一種の依存関係にある。)
- 人生が自分の意思を超えた力により決定されるという確信。宿命に服従することを好む。
- 力を絶対視し、服従と支配という前提的な共棲関係の中で生きるため平等の概念が無い。
これらの特徴は社会構造にも大きな影響を持ち、支配者による力の行使と拡大、そして服従者の拡大を通して、その権威をさらに拡大する原動力となります。
権威主義が大きくなると帝国主義やファシズムなどの国規模での力による支配がうまれ、その支配の衝動は国外にも広がることとなります。
以上、逃避のメカニズムの中の「権威主義」について整理してみました。
続いて、「破壊性」と「機械的同一性」について次の記事で見ていきましょう!
それではまた次の記事で!