エーリッヒ・フロム の「自由からの逃走」(東京創元社)についての読書日記、今回は第四章「近代人における自由の二面性」に入ります!
獲得した自由が近代人にどのような影響を与えたか、そして自由を謳歌するためにどのような障壁があるかについて触れていきます。
本題に入ってきているので、要約が中々大変でしたが引き続き頑張っていきます!
過去記事はこちら: 背景情報の整理、第一章: 自由-心理学的問題か? 、 第二章:個人の解放と自由の多様性
前章までの振り返り
封建主義の崩壊により、人々は待望の自由を手に入れました。
社会の一部としての自分であった存在から、独立した個人として自分のための人生を自分で選択することが可能としました。
その反面、社会との一体感を生む一次的な絆は失われ、自然や社会構造という外的な恐怖に一人で戦うことが求められる不安的な環境にになりました。
このような環境の変化に適応できない人々は、孤独と無力感による不安に苛まれることとなり、獲得した自由を放棄するという自由からの逃走への衝動を生みました。
その逃走の一例が第三章で触れた新しい宗派としてのプロテスタンティズムによる神への絶対的な服従でした。
このプロテスタンティズムは不安を解消したいという民衆の心理的欲求を(表面的に)満たすことで、多くの支持を得て宗教改革という大きな流れに発展しました。
新しい宗教の教義は、中世的社会組織の崩壊と、資本主義の発生によってもたらされた心理的要求に応えるものであった。分析は、二重の意味における自由の問題に集中された。すなわち中世社会の伝統的な絆から自由となったことは、個人に独立の感情をあたえたが、それと同時に個人に孤独と孤立の感情をもたらし、疑いと不安でいっぱいにし、新しい服従と強制的な非合理的な活動へ個人をかりたてたことが明らかにされた。
自由からの逃走 p120
近代社会が与える人間への影響、積極的な自由への障壁
筆者は、宗教改革におけるパーソナリティの変化と同様の影響が資本主義社会の発展によりもたらされたことを示すことを本章の目的としています。
そして、近代社会が人間に与える影響として下記の2つがある掲示します。
- 独立的、自律的、批判的存在への変化
- 孤立した、孤独な、恐怖にみちたものへの変化
前者は束縛から解放され、人生に対して自分の意思を持ち、自分の意見を持って判断するというポジティブな側面がある一方、後者はネガティブな変化となっています。
近代社会という1つの要因から、この矛盾する2つの傾向がなぜ生まれるのかを考える上で、自由へと解放されたことにより登場した新しい脅威、自由を謳歌する上での障壁があり、この理解が重要となります。
この要因は複数個例示されており、この記事ではその中から3つをピックアップして触れていきます。
- 人間の内面的側面
- 資本主義の個人への影響
- 近代的な利己主義について
積極的な自由への障壁その1:内面的側面
自由を活用するための1つ目の障壁としては、人間の内面的要素が挙げられ、積極的な自由を実現する難しさに起因します。
この積極的な自由とは 第二章 で二種類に分類された自由の内の「・・・への自由」を指すものとなります。
束縛から解放され、自由の身となっただけの受動的な自由と異なり、積極的かつ自発的に自由を活かして自分らしい人生を全うための自由との付き合い方となります。
独創的な思想および積極的な自由を実現する難しさ
問題となるのはこの積極的な自由を実現するのが難しい点です。
自由を活かして自分らしく個性を発揮するためには、独創的な思考がポイントとなると筆者は指摘します。
独創的な思想こそが社会から独立した周りからの影響を排除した個人オリジナルの考えであり、外的な支配からの真の解放を意味します。
社会制度として外的支配から解放されても、その思考や行動が周囲に依存していれば真の解放とは呼べません。
しかし、この独創的に思想することは想像以上に難易度が高いです。
難しいからこそ、独創的な思想というのは希少価値がでて評価されるのですが・・・。
人の考えをそれまでの経験を元に形成されます。そして、そのほとんどは見聞きした他者の意見や思考により構築されます。
そのため、ほとんどの人は自分自身で考えているようで実は他の人からの影響を受けており、自分自身で考える能力を持っていないことを筆者は指摘します。
近代人は、「自分」が考え話している大部分が、他のだれもが考え話しているような状態にあることを忘れている。また近代人は独創的に考える力、-すなわち自分自身で考える能力を獲得していないということを忘れている。
自由からの逃走 p122
匿名の権威による内面からの恐怖と束縛
さらに、常識と世論という「匿名の権威」が私たちを縛ります。
これは、人間社会で生きることに適応するために進化してきたことにより備わった本能的な部分でしょう。
この匿名の脅威に対し恐怖が生まれ、私たちは求められる姿になれるように振舞おうという強制が生まれます。
この匿名の権威に対して内面から生まれる恐怖と束縛により、独創的な思想および積極的な自由の実現はますます困難となります。
あたえられた課題をこなすだけの人生から自分らしい人生へのシフトを考え始めた自分は、この独創的な思想の難しさを痛感しております。何をしたいのか?どんな存在になりたいのか?自分らしさとは何なのか?そしてそもそもそれらをどうやって考えればいいのか?課題は山積みです。
自由の質という考え方
そのため、積極的な自由を獲得するためには、自由の量という権利の拡大を目指すのみでなく、自身が手に入れた自由を十分に活かせているかという質を考える姿勢が重要となります。
しかし、独創的な思想および積極的な自由の実現の難易度により、この質を考えることは複雑で取り組みにくい習慣となります。
そのため、積極的な自由の実現への困難な道から目をそらし、社会に従った方が楽ではないかという衝動が生まれます。
現在手に入れている自由の量に満足し、その活用という質の視点を怠ると、個性や能力を発揮できていない状態を生み、自発的な社会とのつながりも難しくなるため、孤独感や無力感の要因となります。
積極的な自由への障壁その2:個人への資本主義の影響
近代人にとって自由を活用するための2つ目の障壁としては、個人への資本主義の影響が挙げられます。
この部分はマルクスの「資本論」の考えによる影響が見て取れますね。
本記事ではこの影響を更に下記の三種類に分類してみました。
- 人間の手段化による人生の無意味化
- 人生の自己責任化、外部評価の自己評価への影響
- システムの巨大化と社会の複雑化
それぞれどのようなものか見ていきましょう。
人間の手段化による人生の無意味化
封建主義崩壊以前の中世社会では、ほとんどの人は社会から与えられた役割を全うすることが生きる目的でした。
一見、これは社会に拘束された不自由な人生と感じますが、当時の人々は個性化を果たす前であり、一次的な絆により社会と結びついた存在でした。
つまり、個人が社会の一部に組み込まれていたため、社会への貢献が自分にとってのやりがいや幸せにつながります。
封建主義の崩壊により、人々は束縛から解放されて、個々の存在となり自由を手に入れましたが、生まれながら与えられた役割も失うこととなりました。
これは自分の役割や人生の目的を自分で見出す必要が出てきたことを意味します。
ここで自分の能力と個性を発揮して、自発的な社会とのつながりを形成できた場合は、自分の役割と人生の目的を見つけられますが、このプロセスが様々な障壁で妨げられると自分の生きる意味を見つけることが難しくなります。
一方当時は資本主義社会の発展により、お金をはじめとした資本の価値が高まっていました。
資本の獲得というのは誰にでも伝わりやすい社会的な基準であるため、目的を見失った人々にとって取り敢えずで設定しやすい目標となります。
お金は誰にとってもあればあるほど好ましいものと感じられるので、盲目的に取り敢えずの目標として選びがちです。
しかし、資本の獲得はあくまで幸福獲得のための手段であり、資本を増やすだけで幸せになれるわけではありません。
先日取り上げた本「DIE WITH ZERO」にもある通り、お金ではなく、人生を最大化することが本当の幸せにつながるという考えに私は同意します。
この思考が無く、ただお金を稼ぐことを目的としてしまうと、たくさんのお金を稼げたとしてもそこから十分な価値を引き出すことができず、一部の人は空虚感に苛まれるでしょう。
更に資本が集中すればするほど資本が大きくなるという資本主義の性質上、その労働の成果は労働者ではなく資本家に集中するため、労働者への還元は限定され、資本の獲得という空虚な目的でさえ困難な道となります。
また、一時的な絆から解放された世界では、生まれながらに与えられた役割も失っているため、自分の労働に意味を見出せない場合は、ますます人生の無意味化が強くなります。
このような状況になると、自分の人生の目的を考える気力は失われ、ますます積極的な自由から遠ざかる結果となります。
歯車という現代でも親しみのある比喩を用いながら筆者は下記の通り指摘します。
資本主義においては、経済的活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。経済的組織の発展に寄与することや、資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにでなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。人間は巨大な経済的機械の歯車となった。
自由からの逃走 p127
人生の自己責任化、外部評価の自己評価への影響
また、一時的な絆から解放された人々は、個人としての孤独な活動を余儀なくされます。
これはそれぞれの選択や努力が個人の運命に与える影響が大きくなり、人生の責任が各個人に掛かることを意味するため、人生の自己責任化が進みます。
これまでは仕事や住み場所もほぼ決められていたので、自分の人生についての責任はほとんど問われない状況でした。
また、資本主義発展は、収入・地位・名誉という市場からの評価を、他者との比較の基準として導入します。
この評価基準は人の内面から生まれたものではなく、外的に与えられたものとなります。
そのため、自分の人生の目標でさえ自分で選ぶものではなく、外部から与えられたものとなってしまいます。
これは、目的の達成と自分の満足や幸福との乖離を生み、また、上記の資本の獲得が人生の目的となるため人間の手段化も加速します。
一時的絆が崩壊した中での資本との獲得という目的は、他者との協働よりも競争へ人々を誘います。
その結果、周囲が仲間ではなく敵や利用するための道具という存在になり、疎外感と孤独感を生みます。
システムの巨大化と社会の複雑化
3点目の資本主義発展の影響として、システムの巨大化と社会の複雑化があげられます。
中世までは大地主やギルドほどのシステムはありましたが、現在の工場や会社のような大規模なシステムはありませんでした。
しかし、産業革命がおこり、工場の数や規模が拡大し、そこに人々が労働者として集約されるという構造が発生します。
組織の規模が大きくなり、システムや手順書が完成すればするほど、自分の影響力が小さくなり、その作業は誰にでも代替できるように思え、自分らしさを活かした貢献も難しくなります。
創意工夫をする余地もなくなるため、上記の独創的な思想を求められる場面も少なくなります。
個人のお店であれば自分の意見であったり、やりたいことを実現しやすいですよね。直近の副業がトレンドという流れもこの側面が1つの原動力かもしれません。
さらに社会の複雑化による影響が加わります。
現代はさらに複雑化が加速しているので、実感がわきやすいポイントであるかもしれません。
ニュースを追うのも追いつかないのに、その内容や自分への影響を精査する時間もないという悩みをお持ちの方も少なくないと思います。
そのような社会では、自分が何かを成し遂げるというイメージを描きづらいため無力感を生み、そして社会の発展に自分はあまり関与できないかもしれないという疎外感を増大させます。
資本主義社会の発展による以上3つの影響力から、人々は無力感と孤独感を募らせやすい環境で暮らすこととなり、積極的な自由への道の障壁となります。
積極的な自由への障壁その3:近代的な利己主義について
積極的な自由への3番目の障壁として、近代的な利己主義という資本主義や宗教改革で形成された民衆の性格構造が挙げられます。
近代的な利己主義とは、一次的な絆から解放され個人での活動を余儀なくされる中で、自分の人生の肯定と愛が欠如した中で自分本位の活動をする性質を指します。
この近代的な利己主義は積極的な自由の障壁となりながら、社会構造の変化を加速させます。
自分の人生の肯定の欠如
資本主義社会は、プロテスタンティズムによる民衆への影響と相乗効果を持ちます。
プロテスタンティズムにより禁欲主義と個人の無意味化という教義を受けた民衆は、自らの幸せのためではなく、勤勉であることの証明をするために勤勉に働きます。
勤勉であることが神から救済される存在である証明であるため、この勤勉性は強迫的な側面を持ちます。
この結果、人々は自らの人生という目的を捨て、自分より大きな存在となった資本のために働く道具・奴隷となる傾向を増強し、労働の目的から自分の幸せという観点が失われます。
このような民衆は当時の資本家や権力者にとって都合の良い存在となるため、教育等を介してこのような勤勉があるべき姿として推奨してこの傾向を増強します。
どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、その社会のもっとも強力な支配階級の精神によって決定される。その理由、強力な支配階級が教育制度、学校、教会、新聞、劇場を支配する力をもち、それによって自分の理想を、すべての人間にあたえる力をもつからである。
自由からの逃走 p129-130
このような背景の元、道具化した民衆の自我は、自分自身ではなく、外部から求められる社会的な役割に基づき形成されます。
自分のためという本来の目的は失われ、自己評価さえ外部から与えられた基準が使われることとなります。
そのため、近代的な利己主義は、周囲とのつながりを失った中で、外部からの評価を求めて競争や周囲の利用という利己的な行動を示しますが、その活動により目的を達成しても自分の幸せにはつながりません。
一見、自分本位の行動をしているように見えて、その実は自分のための行動ができていないことを意味します。
愛の欠如
近代的な利己主義の目的は自分の幸せではないため、そこには自己愛すらもない点を筆者は指摘します。
積極的な自由を達成するためのアプローチとして、生産的な仕事と愛による社会との自発的なつながりがあげられます。
独創的な思想の難しさ、社会の複雑化による個人の影響力の低下により、生産的な仕事の難易度はあがっています。
さらに、もう一つの愛というアプローチも、利己主義の性質により達成が難しくなります。
競争社会により協働する姿勢は薄れ、他者が仲間ではなく敵や利用とする道具として認識するようになった点も影響しますし、プロテスタンティズムの自分を含め人間を無意味で無価値な存在と考える教義により、他者の尊重という視点が失われたことも影響します。
また、筆者は愛は他者を愛する前から人間の中に内在するものであり、他者を愛するためには前提として自愛が必要である点を下記の通り主張します。
それは人間のなかに潜むもやもやしたもので、「対象」はただそれを、現実化するにすぎない。(中略)愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追及であり、内面的なつながりである。(中略)私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象である。私自身の生活、幸福、成長、自由を主張することは、そのような主張を受け入れる基本的な準備と能力とが存在していることに根ざしている。(中略)他人しか「愛する」ことができないものは、全く愛することはできないのである。
自由からの逃走 p131-132
利己主義は積極的な自由を実現するための根本的な解決を遠ざけます。
孤独感や無力感による不安の解消という根本的な解決はできず、下記の循環は途絶えることなく強化されていくこととなります。
障壁による逃避への衝動
今回整理した障壁により、人々の不安はますます大きくなり、積極的な自由への障壁もさらに大きくなります。
その結果、より多くの民衆に逃避への衝動が生まれ、民衆の新たな性格構造の形成が加速し、規模も大きくなっていきます。
この逃避の結果により、どのような性格構造が形成され、それがどのような歴史的事件につながったかというのが今後の章のテーマとなります。
第4章は哲学的な話が多くて個人的に整理が中々大変でした。皆様にとって分かりやすい整理となったでしょうか?
次回は、民衆の性格構造の変化のメカニズムと結果を取り扱う章となります。
それではまた次の記事で!