エーリッヒ・フロム の「自由からの逃走」(東京創元社)についての読書日記、今回は第5章「逃避のメカニズム」に入ります!
逃避とは、孤独・無気力への非合理的な対症療法を指します。
この対症療法は、積極的な自由を放棄し不安の原因への対処から遠ざかるため根本的な解決につながりません。
第5章では、逃避のメカニズムを3種類に分け、民衆の性格構造に起きた変化とその仕組みを分析していきます。
本ブログでは、第5章を2記事に分けて整理していきます。まずは前提となる議論の妥当性の確認です。
過去記事はこちら: 背景情報の整理、第一章: 自由-心理学的問題か? 、 第二章:個人の解放と自由の多様性
第三章 宗教改革時代の自由 : 前半 、後半、第四章:近代人における自由の二面性
目次
議論の妥当性の確認
中世から近代と考察を続け、ようやく現代へ議論が進んできました。
テーマの中核に入ってきていますが、その前に本書で取り扱う議論の前提が整理されます。
この整理は本章の内容をその後の章に応用して議論を広げる上で重要なポイントとなります。
大事なポイントは下記です。
- 個人心理学の社会心理学への応用
- 神経症的患者における観察の意義
個人心理学の社会心理学への応用
本章では個人における逃避のメカニズムをテーマとしており、その内容を元にその後の章で、集団の心理へとテーマを発展させていきます。
発展する前の前提として、個人を観察して得られた知見を集団の心理学的な分析に応用できることを、集団は個人の集まりであるという理由から下記の通り主張します。
どのような集団も個人によってできたものであり、しかも個人以外のものによってできているものではない。それゆえ、集団の中で働いてるメカニズムは、個人の中で働いているメカニズムにほかならない。(中略)もしわれわれの社会心理的現象の分析が、個人的行動のくわしい研究に基礎づけられていないならば、それは経験的ではなくなり、したがって妥当性を失うことになろう。
自由からの逃走 p155
ここは、まさにそれまで個人や人が対象であった心理学における知見を社会構造の分析へと応用するという筆者の研究の特徴及び功績となります。
木を見ずに森を語ることはできないということでしょう。
構造やシステム、社会や世界と物事を考える中で視点が大きくなる際に、その構成要素を見失わってはいけないという学びを得ることができました。
神経症的患者における観察の意義
また、筆者は神経症患者の観察によりえられた知見が、社会学的心理学に適応できるかについて補足します。
これは個人を対象とした心理学的な知見は、基本的に神経症患者と定義された方の観察を元に収集されていることを鑑みた部分です。
筆者は神経症的な人間で見られる性質は、正常人でみられる性質と本質的には同じであり、その程度が異なるだけであると指摘し、 神経症患者の観察でえられた知見の有用性を主張します。
神経症的な人間では現象がより明確にあらわるため、正常人からは観察しづらい特徴や性質を捉えることができます。
われわれが神経症的な人間について観察している現象は、原則的には、正常人において観察される現象とことなっていはいない。ただそれらの現象は、いっそう強いアクセントがつけられ、いっそう直截であり、しかもしばしば、正常人は、問題を十分知覚していないのにたいして、神経症的な人間は問題をいっそう意識的にうけいれられているだけなのである。
自由からの逃走 p155
ここで筆者は社会における健全性の定義についても言及します。
社会で言う正常人とは、個人にとって自由を謳歌し幸福である存在を指すのではなく、社会的な欲求に適応できているかにより規定されています。
そのため、個人にとっての健康と社会から見た健全には乖離が生まれます。
例えば、逃避により権威に隷従し自由を放棄した状態であっても、社会からの要求(勤労や納税等)をはたしていれば健全とみなされます。
私が感じたこと
この社会における健全性については現代社会でも考える必要があるポイントと感じました。
健康に社会に順応しているように一見みえても、実は欲求不満や葛藤が無意識の中に隠れており、気付かないうちに問題が膨らんでいるケースも考えられます。
そのため、自分本来の健全性が失われていないか確かめる習慣が大事となります。
この個人にとっての健全性は成長、能力の発揮、社会との繋がり、独創的な思想、幸福に基づきます。
また同時に、この自分が無意識に抱えている問題を重く受け止めすぎると、社会的な不適応を引き起こす危険性があるという点も注意が必要でしょう。
これで、第5章の序章の部分の整理ができましたので、本題の逃避のメカニズムに入っていきましょう!
それではまた次の記事で!